日記

今日は雨、バイトも中止になって家に引きこもることに。
夕方からは雨も止んだのでジョギングでもすることにした。
やろうかと思っているコンテンツ(ゲーム、本など)も溜まっておりやれることも多いのだが、やることは無いとも感じる。

実家の自室で過ごし、この先ここから出ていく予定も無い。
自分の気持ちに正直になった結果、この状況になった。
しかしやっぱりどこかで後ろめたさのような、罪悪感のような、間違った人生なのではないか、と感じるところがある。

人口増大期かつ雇われ労働が普通とされた昭和後期~平成前期の日本の文化では、実家から出ない人間は「パラサイト」だとされた。
もっと昔の第一次産業中心の時代では、基本的に土地や森などの資源の取り合いの関係から人口密度を抑制し、実家にいて家族を持てるのは長男のみ。次男以降は実家のお手伝いか、どこかに奉公に出るか、開拓地に分家するか。

今は人口減少期の、都市過密化・地方過疎化の時代。
地方は人口減少が激しく、家も土地も余っている。
変わったことを連ねると際限が無いが、要は時代が違う。だから文化も変わるだろう。

しかし人の心や考えはなかなか変わらない。
現代人でも、昭和な生き方が最も正しいのではないかと思ってしまう。
それはまた、昭和の人間も同じかもしれない。
都会に出ても、「いつかは故郷で…」と思う人も多いだろう。

色々やった。世間の風潮にほだされてやった。だけど忘れられなかった。だから帰った。今から出ていってもまた同じ結果になるんじゃないかと。落ち着くことが望まれる。落ち着くのか本当に?落ち着くとは、もう追わないこと。

誰もが色々な生き方を選択できる。
しかし選択には責任が伴う。誰かの責任には出来ない。
自分が選んだんだから、自分にとって幸福で正解な選択肢じゃないとダメだって、思ってしまうこともある。

日記

いやまあ、一応婚活はしてるのです。

2月から工場労働を始めると同時にペアーズの有料会員6か月に登録し、8月までやっていた。
結果、1度も出会うこと無し。
ちょうどコロナの時期と重なったのもあるけど、なんか、続けても勝てる見込みが無くて、尻切れで辞めてしまった。

マッチングは若干したんです。
でも、続かんね。
ネットでNGなやり取りを調べて推奨されるタイミング、流れとかを自分なりに演出もしたけれど。

それに写真写りもなかなか良いのが撮れないし…。
他人が撮ったような視点の、清潔感のある感じが良いらしい。
撮ってくれる他人?家族ならおるけど、おるけど…。

元々自分は他人にあまり興味が無いし面白い話が出来るわけでも無い。
でも、このまま独身で一生を終えるのは、寂しいしつまらない。
友達は若干いるけれど、しかし彼らの存在が生き甲斐とまでは思えず、やはり他人のことを考えるにあたって大きな領域を占めているのが、家族。
家族が欲しいから、結婚がしたい。

しかし、自分は恋愛感情のようなものがほぼ無いと思う。
正直に言って性欲の存在は、まあ否定しないが、それだけで結婚までいけるか?
性欲抜きで赤の他人を「好き」まではなかなかいかず、婚活へのエネルギー源も少ない。
ヤリ目(やること目的)は嫌われる、だがそのエネルギー無しでは自分を魅力ある男性とするやる気は出ない。
性欲の発散にしたって、もう長い人生を歩んだから、色々と方法はあるんだな。

お見合いなどの紹介で昔は結婚を多くしていたが、それが無くなった。
恋愛結婚はいつの時代でも同じくらいの割合で、紹介結婚が無くなった分がそのまま未婚率になったようだ。
自分は間違いなく、昔なら受け身の紹介結婚をしていたタイプだ。
だから恋愛結婚の常識は当てにはならん。さて、どうするか。
結婚相談所もありだが、しかしあれほど金がかかるものなのか、そりゃ一生ものだけれど。
ちょっと調べるといかにも商業主義的なことばかりで、辟易もする。そりゃタダではやってられんのは分かるが。

元々他人に興味が無いから、「他人」から「家族」を作るのは難しい。
もっと省力的に出来んかいな。

日記

10月から庭師となるのだが、自分は昔から美術にほとんど縁も興味も無く、美術方面での庭師になれるかは不安だ。

しかし最近日本庭園のことや外構のことについて勉強している影響で、少しずつ身近な環境の美しさに目を向けるようになった。
自室の壁には何も飾ってない。
せめて自室から何かしてみようか?と思うようになった。

ちょうどメルカリで「〇〇円以上で〇ポイントもらえる」というキャンペーンをしていたので、美術カテゴリに目を通してみた。
彫刻や細工物が色々あるが、目に留まったのは絵画。
特に、日本画や山水画は美しいと感じる。
何も描いてない空間にさえ美しさを感じるあのバランス。

妙に目を引いたのが、アイキャッチ画像にしているこの絵。
作者不明、美術界では価値もほぼ無いだろう。
だから額縁付でも安かった。

しかしなぜだろう、自分には刺さる。
風景画だが、山も花も月も波も建物も無い。
水辺、草木、岩だけ。
にも関わらず、何の変哲もないどこにでもある自然の風景とは思えず、安らぐ。
何も描いてない空の部分が、どうしてこれほどバランスが良いと感じるのか。

今、この絵は、自室の机の上に飾っている。

日記

鳴門市の土佐泊浦でキス釣りをした。
今日は曇りで微妙な天気なので、旅行とかはせずに釣りで。

1.8mロッド、青イソメ、5号ジェット天秤のちょい投げ。
渡船近くには砂浜があり、この辺りから投げ釣りが出来る。
小鳴門海峡は潮流が非常に早いので、引き潮・満ち潮時よりも停滞時のほうが釣りやすかったりする。

今までキスは1回も釣ったことが無かったが、ようやく釣れた。
8時から10時30分まで不慣れな釣りをして、キス3匹、チャリコ1匹、ベラ1匹。
大きくは無いが、初めて見るキスとチャリコは輝いて見えた。
子供の頃は宝石のようにも思えた。

砂浜であるがやはり少しは石や海藻もあり、根がかりしてジェット天秤紛失。
しょうがないので貰い物の15号天秤を付けてみるが、重すぎる…
しかしそれでも潮流が激しくなった小鳴門海峡では潮にもまれ、どんどん流された。
そうこうしているうちに、ロッド先端のリングが外れて故障。

予備の5.4mロッドでちょっとウキ釣りを試してみるが、仕掛けを引きすぎて竿先が折れる。
立て続けに竿2本が折れたので、ここで中止。
300円で買った青イソメは少し余った。

帰宅して、竿の修理方法を調べてDIYでやってみる。
最近グーグル検索もひどくなりすぎてなかなか答えが分からなかったが、とりあえず瞬間接着剤を使えば良いとのこと。
竿を少し短くして、余った場所はペンチで折り取り、1つ手前のリングを先端とする。
2.4mくらいの、エギングコンパクトロッドとかも欲しいな…
やっぱり短い竿は取り回し良くてええね。

帰宅後、まだまだ休日が続くので、自宅の花壇の整備。
土が多すぎるので削ったり、剪定したり、伐採したり。
その時その時で思い付きで整備しているので、自分でもどうなるかわからん。

秋、自分の体力が回復して元気になる季節。
1日に3,4ターンは動けるぞ。

日記

田舎と都会、それぞれの生き方についてちょっと考えていた。

都会には色々な人や物があり、何でも揃う。
だから個性的な人でも仲間を見つけられる、個性的な人向けの場所なのかもしれない。
無限に思えるほどの空いた「役」がある。

しかしまた、同質化を願う人々の集まりであるとも思える。
都会は田舎よりも先進的だ(と思える)。
ここにいてここに従っていれば、何をせずとも自分も先進的な時代や文化の一員となれる、気がする。
だから無個性で無気力な人が、他力本願で集まってきて、無個性な場所になるとも見える。
流されることを尊び、自分も巨大な塊の「一員」となりたい。

田舎、人口密度の低い場所では、あらゆるものが揃っているわけではない。
仕事の種類や個性的な考えを持つ人の絶対数が少ないから、選択肢が少ないように見える。
だが人口が少なければ少ないほど、自分に求められたりやらざるを得ない強い「役」がある。
かけがえのない、自分の代わりのない役を生き甲斐に出来る。
都会では、自分一人なんていてもいなくても同じ。
都会と田舎は、大きな組織と小さな組織の違いとよく似ている。

まあ結局は、それぞれの場所、状況で得られるものが異なり、得られないものがある。
得られないものをないものねだりして、ここにいる自分は不幸だ、だから変えようとする。
そして変わったら、変わる前にあったものが無くなり、それを切望するようになる。そして戻る。

自分の故郷は海が近くて釣りがしやすい。
バイクで心地よく走りやすい。
東京や大阪に住んでアウトドアが好きな人にとっては、垂涎の地であり、私は恵まれている。

無いものねだりで人生を浪費するくらいなら、今持っているものを大事にしていきたい。
私は私、過去は過去であるが、この状況と過去は「私」を構成する大部分だ。
自由とは自己を希薄させるものだと、老いつつある私は考えるようになった。

日記

台風や秋雨などで天気の微妙な日が続くが、季節が進んでいる証拠だ。

最高気温は30℃以下、最低気温も20℃前後となり、クーラー無しでいられるようになる。
うるさかったセミの鳴き声もほとんど聞こえなくなり、静かで心地よい。
まだ身体が夏モードなので、深夜勤の出勤時のバイク乗車時は寒いくらいだ。

花粉症の自分にとって、この時期が一番好きだ。
日は短いけど、花粉は飛ばないし、気温はちょうど良いし、虫も少なくて静か。
夕夜に鈴虫が鳴くと心まで涼やかになる。

真夏では「暑いから」、という理由でやりたくなかったことも、この時期からは随分楽にやることが出来る。
小さな庭(花壇)の整備もしていくか。
バイクの整備もしていくか。
掃除もしていくか。
キャンプも良いね。
釣りも良い。
もちろんバイクで走るのだって良いのだ。
こんな心地よい時期に部屋に籠っていたくない。
皆はどうかな?
出来れば同好の士と交流したい。
婚活も…

秋は色々なことが出来る楽しい季節。

日記

当初予定通り、9月8日から10日まで九州に登山旅行していた。
悪い天気は変わらず、延長せずに10日で帰ってきた。

バイクに登山用装備と宿泊用装備を用意して積むには時間がかかる。
小物でも忘れると面倒なことになるから、何度も忘れ物が無いか確認する。
寝ている時でもあれこれ考えて、思い出したら起き出してパッキングする。

山頂やバイクを走らせている時などの旅行のコアな時間は天気が良くて、まあ結果的には良い感じの旅行だった。
しかし片道6時間近くかけて、高速道路代・フェリー代・ガソリン代で片道8000円はかかり、体力も使う。
行き来は大変であまり頻繁にはしたくないものだ。
無暗に金も体力も時間もかかるからコストパフォーマンスは良くない。
帰宅後も片付けに追われる。
帰宅時は疲労もあって、うんざりしていた。

…でもそれでも、帰ってくると「次はどこに行こうか」という気分になる。
写真の整理をし、ブログで登山日記を書いて、一区切りつくと、また「次」が生まれる。

「死ぬまでに300名山全て登頂する」ことを目標としている。
西日本は結構行ったが、中部以東はまだ1,2割くらいしか行けてない。
長期休暇の度に行かないと登頂する前に死んでしまいそうだ。

これほどやっても自分はただ他人が作った道を歩んでいるだけ。
と思うと寂しいが、しかしどの人生もそうだろう。
この地で生きて、こういう過去を持った、こういう装備を持った人間が300名山を踏破するのはこの世で自分一人しかいない。
何をやってもオンリーワンにはなれないとも言えるし、何をやってもオンリーワンだとも言える。どうとでも言える。

日記

9月7日から12日は休暇とした。
しかしちょうど台風がやってくる。
雨の日の旅行はやはり面白くないので、直前までどこに行くかは決めず、各地の天気予報とにらめっこして行先を決めることにした。

北海道、長野県北部を候補にしていたが、結局九州に決めた。
今年の1月にも行ったが、そろそろ九州の300名山を制覇したいので集中して行くのも良かろう。
7日時点ではまだ国道九四フェリーが台風で運休なので、8日から行くこととする。
しかし11日頃から雨の予報だ。
2泊3日の旅になりそうだ。
旅は短ければ短いほど移動日の割合が増えてしまって費用もかかる。
出来ればもっと長くしたいが、スケジュールと天気には従うしかないか。
無職になればそこのところ自由だが、しかし旅が唯一の人生の目標じゃないから。

とりあえず闘牛が威嚇で地面を蹴るように、機会を逃さないよう常に心の準備はしている。

日記

「おへんろ。」を見終わって、次は「住めば都のコスモス荘」を見ている。

00年代前半の、コメディアニメである。
非常に夏らしい明るい絵柄で、同じ夏なのに鬱屈したエヴァなどとは正反対である。
これが90年代末期と00年代初めの違いか?などと勝手な考察。

夏には夏の、明るいものがある。
懐かしい。
いつの頃からか、真夏と言えば薄暗いクーラーの効いた部屋に引きこもるのが標準となってしまった。
おかげで爽やかな青空の夏と言えば、ゲームや漫画の中の世界を思い出すようになった。
ニアアンダーセブンとかシュタゲとかひぐらしとかぼくなつとかその他諸々…
一夏って、物語の始まりから終わりまでのちょうど良い期間なのだ。
だから、夏の終わりになるとそれらの終わりも思い出されて、過ごしやすくなるというのに寂しくもなる。

とまあ今はこうやって次々とアニメを見ている。
dアニメばかり見ていそうな人のことを「顔面dアニメストア」と呼ぶらしい。そんな悲しいこと言わないで…

日記

8月初めの日記にも書いたが、最近の自分には目的が無い。
表面的には「結婚して子育てしたい」とか「全国の300名山制覇したい」とか「全国一ノ宮制覇したい」とかはあるんだけど。
それらの目的のためにいくらかの行動もやっている。

しかしやっぱり、昔に比べたら目的に向かってストイックに努力している、という感じは無い。
使命感が、無いんだよなあ。

使命感を持って生きるには、どうすればいいか。
多分、「自分にとっての理想」が必要なんだと思う。
ベンチャー企業の社長や国会議員になったりする人は、何かを変えるがために行動しているだろう。
何かを変えて、理想の状態にするためだ。

現状に不満を抱き、その不満を解消するための方法を考え、行動する。
それが使命というものだ。
だが、一番初めに「現状に不満を抱く」必要がある。
逆説的に言えば、お釈迦様やお大師様が布教したのは、多くの人々が苦しんでいたことに不満を抱いたからだ。
不満を抱かなければ、悟りを開いたとしても山中の仙人となっていただろう。

「苦しんでいる人を救う」のは、使命としては真っ当だ。
その使命を果たすには、まず苦しんでいる人を見つける必要がある。
しかしこの世には様々な人がいる。自分とは異なる考えを持つ人もいる。
自分が全く理解できないことを好む人もいれば、自分を全く理解できない人だっている。
ある人にとっての苦しみは、別の人にとっての歓びでもある時がある。
ならば自分は自分が望む社会を望む役割を演じ、心の奥底ではそれが自分のエゴであるとも感じながら、使命を果たしていくことになるのか。

…?