日記

土曜日だが工場の交代制勤務のため、出勤。1班4,5人で維持できる仕事なので、職場は静かである。

最近はかなり仕事の順序やタイミングや内容が掴めてきた。おそらくトラブルが無ければ結構余裕のある職場だと思う。和気あいあいとした雰囲気であり、慣れていけば居心地も良くなるだろう。居心地が良くなりすぎるのかもしれないとも思うほど。

今まで工場労働をいくらかやってきたが、自分の経験から言えば、サービス業よりも優しい人が多かったり対人関係のストレスが少ない。人と接するのが好きな人がサービス業に就きそうであるのに、優しい人が多いとは思えなかった。あの環境がああさせるのだろうか。人の性格は環境によっていくらでも変わるのか、生まれつきの性格が進路を選別するのか。

日記

27日、工場の準夜勤である。まだまだ独り立ちするレベルではないが、ふんわりと仕事で大事なところとかが分かってきた気がする。何月何日までにこのレベルに達しないといけないわけじゃないようだから、職場の教育方針に倣いながら気楽にやっていこうかと思う。

就職して約2週間、人見知りの自分だがようやく職場の雰囲気というものも分かってきた気がする。今までの人生で色々な仕事をしてきて思ったが、やっぱり工場はガラの悪い人がほとんどおらず、優しい人が多い気がする。外交的な人が集まるサービス業では逆に嫌な人が多かった気がする。工場とかは内向的な人が集まるからなのだろうか、他人への悪口は今のところ聞けない。自分に話しかけて仲良くしてくれようとしてくれるのか職場に慣れて欲しいとしてくれているのか分からないが、どちらにせよそういう善意を頂けているから、自分も出来る限り職場に慣れて、他人の助けをしていければと思う。

28日、時間帯交代のための休日。準夜勤⇒日勤の時は休日は1日だけ。それ以外なら1日半はあるのだが。コロナウイルスのおかげでどのイベントも中止になったり。花粉症もあるから、部屋に籠ってインドア趣味に勤しむ。

実家近くを散歩する。見慣れた光景、古くなっていく家々。飽きた町なのかもしれないが、もしこの町の別の家に住んでみることになったら、それは新鮮だろう。住み慣れた地域にあっても、窓から見える景色が少し違うだけで新鮮さを感じるだろう。昔は、ここで一生を終えようと考えるのは嫌だった。でも今は、視点を変えることが出来るようになった。故郷に住みながら、この場所に初めてやってきた観光客の気持ちをシミュレートすることも出来るようになった。つまり、気の持ちようでいくらでも人生は変わる。

民俗学

川の道 宮本常一

1975年に、民俗学者「宮本常一」によって書かれた本、『川の道』を読み終わりました。
図書館で借りて自宅で読みました。
読んだのは2009年に刊行された新版です。

「旅の民俗と歴史」シリーズの9冊目となる本で、川がまだ交通手段として使われていた昔の、日本人と川の関係について書かれています。

内容

川は日本人にどのようなかかわりあいをもっていたか。田畑をうるおし、飲料水を供給し、交通路になり、また魚介をわれわれに提供し、海岸地方の文化が山奥深くへ、山間の物資が海岸地方へ……川は漁労や治水にのみならず、人や物資交流の道として、山と海を結ぶ重要な役割を果していた。
日本の主な河川37をとりあげて、それらの川の果たしてきた人間とのかかわりあいの歴史を綴る。 

(八坂書房ウェブサイトより)

感想など

川は道であった。

巨大なダムが流れをせき止め、川筋に鉄の塊が往来する現代日本において、川が道であったことを実感することは難しい。
しかし人力と自然の力だけだった明治前は、川は物流に深く関係した。

人力で道を作り、そこを徒歩や牛馬で往来するのは多大な労力がかかる。
しかし川を使えば道の整備はほとんど必要無くなり、水深によるが重い物や大量の物を一気に運ぶことも出来る。
言ってみれば、川とは自然に出来た街道である。

ダムや鉄道が出来る前は、川を使って多くの物が上流と下流を行き来した。
上流からは、農産物、丸太や木炭などの林産物、重くて嵩張る素材が多く流れた。
対して下流からは、塩、各種の道具、肥料(金肥や干鰯)など、海や街で作られた軽くて価値のあるものが運ばれた。

川はもちろん上流から下流へ流れる。
では下流から上流へ行くにはどうすれば良いか?
今ではあまり想像できないが、何と「曳綱」で曳いて上っていたようだ。
そのため下へ流れるより、上に上っていくほうが何倍も時間と労力がかかり、川男たちは川筋の町で宿泊しながら上流へ戻っていたようだ。

物流を担う川男たちは運んだ量によって得られる金が変わるが、その時代においては比較的稼げる仕事だったようだ。
筑豊では石炭の物流を川船が担っていた時代もあったが、そこで働く男たちはなかなか粗暴で、現代で言えばトラック運転手をイメージすると合うかもしれない。

そう言えばこの筑豊の石炭であるが、中世から燃料として使われていたようで、江戸時代には瀬戸内海沿岸の塩田地帯で製塩燃料として使われるようになったらしい。
元塩田地帯で生まれ育った身としては、なかなか興味深い記述だ。
塩づくりには大量の燃料が必要になるが、郷土の塩づくりの燃料についての研究の一助になりそうな事実である。

最後に、印象に残ったのは冒頭にあった以下の文章。

川筋を伝って文化が奥地へはいってゆくというのは、そこを人が通って奥地へはいっていったと言っていい。
いろいろの困難を克服しながら、人びとは自分たちの夢を拡大し、また可能性の限界をためしてみるために、その生活領域を拡大していった。
もともと人間はより住み易い地を求めていったものが多いのであろうが、それとは別に、そこに人が住めるということになると、どのように条件が悪くてもそれを克服してそこに住むことを辞さなかった。
世界のすみずみにまで人が住んだのはそのためであった。
日本についてみても、どんな山の奥にも、地の果てにも、また沖の小島にも人は住みついている。

p12

「こんな山奥になぜ人々が住んでいるのか」ということを考える時、川と物流を必ず考慮せねばならない。
物流が良く、広くて使いやすい土地で、経済的なものを産出出来るなら、自ずと人が住んでいく…

と思いきや、日本を隅々まで歩いた宮本常一先生が言うには、人がそこに住む理由はそれだけじゃないらしい。
冒険心こそが、辺鄙な場所にまで人類を運んだ。
手付かずの大自然を前に、挑んでいった先人たちの想いを、私は知りたい。

日記

工場準夜勤。師事している人に少し話を聞いたところ、この分析の仕事は基本的に二人でやるようだ。以前は一人で全てやっていたのだが、仕事が増えて2人じゃないと回らなくなってきているらしい。

ということは、慣れてもこの2人で作業せねばならない。自分は1人作業のほうが気楽で良いが、2人となると一緒にいても全く気兼ねしないような関係にならないと面倒だ。まだ日が経ってないからまだ親密じゃないのは確かだが、この先どうなっていくのか自分には分からない。

自分は世間話はほとんどしないタイプだ。他人に興味が少ないから、だと思う。こうやって日記でも自分の心情のことばかり書いているように、内向的だ。先輩は自分より年下だが、今のところ趣味などではあまり共通点が無く、話と言えば世間話か仕事のことか。

他の人の話を聞いていると、よくああもポンポンと会話が出来るなあと思う。頭の回転の早さが違うからなのだろうか。しかしこれほど話のテンポが違うなら、仕事においても明確な差が生まれると思うが、今まで生きてきて仕事の面ではそこまでの差は感じない。会話で使う頭と仕事で使う論理的な頭は領域が大きく異なる?

日記

今日から工場労働は、夕方~深夜(16:00~24:30)の準夜勤となった。朝はいつも通り7時くらいに起きて、12~13時に昼ご飯を食べ、13~15時は昼寝をして備えてから出勤。毎日8時間ほど寝るようにしているが、昼寝をしてからいくか、朝を遅くするかの選択に少し悩む。多分昔やった準夜勤のように、昼寝を加えるタイプになっていくと今は予想。

準夜勤は特に問題なく。昼勤より人が少なく、職場は静か。渋滞は一切なく、通勤は楽だ。慣れてきたら静かな職場環境で粛々と仕事するようになるかと思う。帰宅は深夜1時くらい。晩飯を少し食べ、風呂に入って、すぐに寝る。

話は変わって、最近は無気力である。特にやりたいこともなく、淡々と生きている。やることがないからしょうがなく仕事に出る。金はあまり考えてない。自分の人生で気力を使い果たしたのか、また再燃するのか。やる気に溢れて生きることは世間的に美化されている。しかしお釈迦様の生き方は傍から見れば、このような無気力に近い。やりたいことをやっていれば一生それが続くとか、何者かになるとか、その限りではない。

日記

今日も親戚の手伝い。休日はあまり無いが、大きな不満は無い。

親戚の仕事も工場での仕事も、大きな不満は無い。自分が好きな仕事とは何だろう。適職とは恐らく自分の努力の割に他人から評価されたり金が稼げる仕事、だと思う。しかしそれは好きとは別だ。好きなことを仕事にするのが正しいと思われてきた。しかしどうやってその「好き」を見つけるものなんだろうか。みんな、適当に選んだ仕事を続けていたりする。続いているのなら、「好き」なのだろうか?

自分の心も状況も大きく変わっていく。「好き」という感情も変わっていく。好きだと思っていたはずなのに続かなかったら、それは好きな仕事とは言えないか?好きだった仕事?

自分の感情が不変のものであるとは信じられない。だから、僕の適職は、他者からの評価で決めてしまいたい。自分のプライベートを大きく犠牲にするものではないという条件で、僕にとってそれは「天職」だとしてしまいたい。

日記

工場勤務はお休み。今日は親戚の手伝い。約10日ぶりだが、ごく普通に作業した。周りの人らとの関係も変わらず。

10日の間で大分季節も進んだようだ。日中は暑く、花粉が舞ってて辛い。やはり冬の間にやるのがベストな仕事だ。久しぶりだからか、妙に身体が疲れた。精神的疲労などは無いが、余裕な仕事というわけでもない。

帰宅後、姪と甥が家にいる。最近はかくれんぼなどをせがまれる。読書やネットの時間が減っていく…そして疲れる。

日記

21日、分析室に配属された1週間目が終わり。色々な人に教わっていたが、来週火曜日からは交代制勤務かつ同じ人に就き続けることになる。自分の中では大分この職場の仕事のことが整理出来てきた。基本から学ぶのは目に見える成果がすぐには出てこない。しかし、ある時から一気に早くなり、何かが変更になってもすぐに対応できる。総合的に見れば、やはり結果や法則を理解していくのが早い、と思う。

この日の夜は夜更かししても良い日だが、ディズニーの「リメンバーミー」がテレビ放送されていたので見た。王道のストーリー展開だが、亡くなった人を忘れないようにすること、死の間際に思い出すのが自分の子供の頃に亡くなった親というのが、非常にロマンチックで良かった。おかげで日記を書けなかった。いや、良いんだが。

22日、丸一日何も予定の無い日。イベントに参加するのも良いが、天気が微妙だし、花粉症だし、コロナもあるしということで、出かけず。午前中に前年分の確定申告を終わらせ、楽天証券で積み立てNISAの設定を行った。午後にジョギングに行ったが、ほんの30分程度で目がかゆくなり鼻水が出るようになる。花粉症だけどこの日まで症状が無かったのは、工場勤務だったし外にいるときはバイクのヘルメットを被っていたから、なのかも。

姪と甥が来てからは実家でかくれんぼをさせられる。

日記

分析作業に入って4日目。出来ることが若干増えてきたからか、「これやっときます」と言ってやれることもちょっとずつ増えてきた。ただし、分かってきたからこそこの作業で考えるべきこともいくつか分かって、ちょっと面倒に思えてきた。昨日も思ったが、バラバラな情報をいかにして綺麗に組み立てるかが大事だ。自分なりのマニュアルさえ作れれば、後はただの単純作業のはずだ。ここでシステマチックな自分の力を示してやるさ。

20日で一人派遣社員が辞めるからか、教育係が1人空くことになる。その影響で自分もようやく交代制勤務になった。化学工場では1日で約1サイクルになるから、同じ時間にいるとほぼ同じ作業ばかりになる。そのような働き方だと独り立ちも遅くなる。そこで、上司に少し頼んで交代制にしてもらった。

仕事をしていれば必ず合わない人がいる。それは分かっていたが、この職場でもだんだんと分かってきた。ただそういうジョークかもしれないが、非常に上司に媚を売って正社員になろうとしている派遣社員が、ちょっと合わないというか、いつか爆発しそうで恐ろしい。

今日は勤務の後、故郷に帰ってきた友達と温泉に入って晩飯を食べた。やっぱりお互い、年を取った。良い感じに。

日記

もらったマニュアルだけでは、実際の仕事を完璧に覚えやすくなるわけではない。そこで朝、係長に追加で印刷して欲しいものを依頼。それにいくつかの書き込みをして改良をすれば、かなり覚えやすくなるはずだ。みんながみんな教えるのが上手いわけではなく、悪意は無いけど基本から教えない・教えられない人もいるはずだ。

自分自身で基本とは何か、そこから外れる例外とは何か、素早くやるコツとは何かの3段階を組まねばならぬ。例えば「元素番号10番はネオン、元素番号20番のカルシウムはアルカリ土類金属」などとバラバラに教わっていれば覚えにくいのは必然。まずは「すいへーりーべーぼくのふね…」などと順序良くしていくと、覚えやすい。頭の良さ・悪さは記憶力よりも、こういう簡略化のコツだと思う。

今は土日祝日が休みだが、親戚が造園業を手伝ってほしいとのことで、行く可能性が濃厚になった。暇ならイベントとかに参加しようかと思っていたが、まあいいや。仕事自体はそんなに嫌いじゃないから。顔がそこそこ広い人と仲良くなっておけば色々と縁も出来る、なんて。