心理

家の檀家は浄土真宗だけどつい最近まで興味はなかった。
どちらかというと四国遍路等で真言宗のほうが好きだったし、更に言えばもっと原始的な仏教(上座部仏教)に興味があった。

しかし最近、飲茶が書いた東洋哲学の解説書を読んで、浄土真宗の南無阿弥陀仏を解説する歎異抄(の現代語訳)を読んでいくと、浄土真宗もかなり良い教えなのかもしれないと考え始めた。
「南無阿弥陀仏と唱えておけば極楽浄土に行けるだなんて、大乗仏教過ぎる。こんなの乱世ではない今の世にはそぐわない」
と思っていたけど、真の教えはそうじゃないかもしれない。
本来は、もっと人知を超えた無分別智のような他力を信じるということだろう。

戦国時代の武将は英雄視されて然るべき先見の明や活力を見せて、人生を自力で開いていたように思える。
しかし、辞世の句ではほんの一時の人生の哀れみを読むことが多い。
なぜ人生は虚しいという知恵があれどもあれだけのことをやったのだろう。

人生は虚しい、誰も彼もが阿弥陀仏によって救われる。
極楽浄土へ行くための修行などしなくてよい、何もなさなくて良い。
だが、何もなさぬには長すぎる。
どうせなら、遊んでみたまえ。他力の世界で自力を出しているフリをした遊びをしてみたまえ。

日記

相も変わらず読書は続けている。
変わらぬ毎日だが、ゆっくりと変わっていたり考えが進んでいる感じはある。
1年前と今の自分は、明確に変わったと言える。
もちろん、それが良いとは限らないのだが。

近所の図書館の本も興味深いものはかなり読んでしまったような気がする。
そこそこ興味のあるレベルならまだまだ時間はかかるが。

最近は民俗学はもちろんだが仏教も学んでいる。
この2つを同時進行で学んでいるとある疑問が生じる。
「今は世襲の僧が多く、昔はそうではない。昔はなぜ僧になったのか、どのような心理状態で僧になるのか。辺鄙な場所にもなぜ寺はあるのか。民衆はそのような寺とどのように関わっていたのか」

これらの疑問は恐らく仏教民俗学という範疇になるだろうが、それに関する良書がまだ見つかっていない。
もっと綺麗事を抜かした生々しい記録が読みたい。それも、心理の方面で。

お金

家計簿

独身アパート暮らし、30代の男の家計簿を載せます。

2022年、令和4年最初の月。
まだまだ2021年という数字にすら慣れてないのにもう2022年、って思ってたら1ヶ月終わりました。

収支内訳

収入 231,370円
給与収入(手取り) 220,301円
資産運用益 17円
ネット収入 11,052円
雑収入 0円
   
支出 76,470円
食費 18,142円
雑貨費 0円
車両交通費 4,512円
医療費 2,530円
保険 0円
服飾費 0円
交際費 0円
娯楽費 15,295円
通信費 2,300円
雑費 9,000円
家賃 22,425円
水光熱費 2,246円
   
当期純利益 154,900円

収入と仕事について

給与収入は変わらず。
夏や秋に比べて忙しい職場に異動したはずですが、残業はあんまりしていません。
そんなにやる必要ないポジションだしね。

雑収入は全くありません。
休日に副業でもやればもっと稼げるのでしょうが、今のところ金銭面において大した目標も無いので頑張りません。

支出について

食費は18,000円、自分にしては少し多くなりましたか。
週イチで外食したり米や養命酒を一気に買ったからか。
まあいいか。

それ以外は……まあ少なめ。
娯楽費は土日に行った歩き旅の費用であったりブックオフで漫画を大量購入したり。
雑費に9000円かかってますが、これは、10年ぶりにネズミ捕りにかかって……
声を震わせながら丁寧語でマッポに対応する。

1月の生活について

年末年始に長期旅行したので旅行欲は果たされ、寒いこともあって長期ツーリングとかはせず。
香川に日帰り旅行はしましたが。

1月は1年のうちで最も寒い時期だけあって、休日は電気毛布にくるまってゲームしたり読書したりすることが多く。
外に出るときは温泉に入りに行くときくらいか!
いや全く、冬の楽しみなんて温泉とかサウナとかくらいしか無いわ~
寒風吹きすさぶと散歩も苦行だし。
寒いのはそれなりに耐えられるけど、やっぱりもう少し暖かい方が良いです。

意識の低い生活を送り続けていますが、でもこうやって無意識的に楽なこと、やりたいことやっているってのが、本質的な自分に沿った生活である、とも思えます。
あなたが好きなことは何ですか?と聞かれたら、やろうとしていることじゃなくて、やっていることを答えるのです。
好きなことってのは、やってしまうことなのです。

日記,心理

今日は阿波西国三十三観音霊場の徒歩巡礼をしていて、遂に終えた。
結願してめっちゃ達成感得られた~ってわけではなかったけどね?
でも達成感がそこまでではあっても満足感は無いかというと、そうじゃない。
やってよかったな、と思う。

最後の札所へ歩いている途中、不思議なことを考えた。

もしかして、受動的に生きることと能動的に生きることってあまり区別つかないんじゃないだろうか?

私は今、歩いている。
私は誰からも指示されず目標を設定し、それを達成しようとしている。
能動的だ、と言えるだろう。

しかし今、歩いている私はただ足を動かして目の前の風景をボケーっと見て「あっ、○○があるー」と素直に受け取っている。
ただ足を動かすだけで何かしらの刺激を得て、満足している。
これはテレビを見るだけで満足しているのとそう変わらないのではないか?

私が受動的に見ようとしているものは、実は能動的に見ている。
私が能動的に見ようとしているものは、実は受動的に見ている。

私が能動的に人生を変えようとしているのは、環境や脳の機能や記憶等の縁起によってであり、それらからの受動の結果である。
私の人生が受動的に変わろうとしているのは、環境等からの影響を撥ねつけないという能動の結果である。

私は能動と受動を両立するし、どちらも無い。
あるがまま、に?