2年暮らした脇町の生活にも終止符が打たれる。
川と物流、歴史を感じる脇町。
歩いているとその河岸段丘らしさがよくわかる。
花の咲く美しい町だった。
うだつの町並みでは花を生けるイベントもあれば、シンビジウムを多く扱う花屋もある。
道沿いのサザンカやツツジ、菜の花にも心を安らげた。
おこおっつぁん(高越山)は脇町からよく見えるシンボル。
冬になると雪を被り、新緑の候では下から徐々に葉が萌え出づる。
この大きな山容を見上げれば神のまします地と、肌で感じられる。
この感覚を信仰と呼ぶのでしょう。
河川敷をよく散歩した。ジョギングもしていた。
脇町は吉野川と共にある。
船運は衰退し物流の要衝としての立場は薄れたが、川への心はまだあるだろう。
吉野の川無くして脇町を語れない。
9月、朝6時、ザワザワサラサラと、風と水の混ざった音がする。
窓を開けたまま寝て、起きると、レールの繋ぎ目を行き交う音がする。
真夏もようやく去って清々しい朝が来る。
秋の美しさたるよ。
仕事では身体を動かさないため、よく川の周りをウロウロした。
天気や水量、光の傾きで景色は様変わりする。
飽きないねえ。この光にも、水の音にも。
東西が開けているから、朝日も夕日も昇って、降りていく姿を見ていた。
この縁のなかった町で暮らしていた人々は、このような風景の下で生きていたのか。
日々は過ぎ、去る時がやってきた。
この景色も感覚も、新しい生活によってまた上書きされ、忘れられていく。失っていく。
私の熱意のように。
何もかも失って喪失感に苛まれないよう、だからこうやって記録しよう。
何かを失った。だけど思い返せば新たに得たものもある。
20代に生きたあの町々、完成された出会いと別れの物語のような思い出は得られたか、得られてない。
得るほどの感受性も喪失したか。
だけど気が狂いそうな絶望感と動悸に悩むことも少なくなった。
大河は滔々と、1人の何もない人間とは関係なく流れる
過ぎていく、日々