心理

例えこれまでしっかりと生きてきた人と言えど、生活の1から10まで全てが魅力的であったり価値があったりするわけではない。
誰でも出来るようなものをやった、誰でも考えるようなことを考えた、他者から見ればそんなことに価値はない。
そんなものよりもっと面白い、作品として結晶化したものが現代では流れてくる。

ではそういう面白い・興味深いものを流してくる存在とはどういうものか?
特にTwitterなどを見ていると分かるが、私生活の全てを発表しているわけではなかったりするし、作品を公表したときのみ高評価を受けている。
しかしその人の人生においては、作品を作っているとき以外にも大多数の私生活が存在するだろう。
フォロワーから見ればそんな私生活なんて付随物でしかなく、付随物しかなかったら興味なんて持たない。
その人の人生の一部の結晶だけが、価値となる。

Twitter漫画にしろ、テレビ番組に出てくる芸能人にしろ、多くの本を書く作家にしろ、彼らは私生活の発表からそこに至ったわけではない。
まず結晶化した作品や仕事が存在した。

たまに私生活に言及したものがバズるが、もちろんそれは今までになかった視点であったり事件だったりしたからだ。
想像できる範疇の何かが起こったとて、誰も見向きもしないし何より自分にとっても価値を感じない。
上記では他者目線と承認欲求強めの言説を書いているが、これは将来自分を振り返った時の自己肯定感にも繋がるわけだから、他者からの評価を気にしない人であっても気を付けるべき点だと思う。
「普通すぎて何も思い出せない時間」より、「結実化した何かがあった時間」のほうが、人生を振り返った場合に価値を感じないか?
人生というビンに多くのものを入れるとき、大きな石を入れてから砂を入れるのと同じように。

 


 

何かを発表するとき、自分を魅力的だと思わせるとき、ありのままなんて不要だ。
自分を構成する大きなもの、他者と比較して大きく異なる点に限定して見せるべきだ。
人の過去や行動を構成するものなんて何十個、何百個あるかもしれないが、その中から最大でも3つ程度に絞っておこう。
そしてその3つは、自分を構成するにあたって比較的大きなものとする。
小さいなものなら、発表できる・結晶化出来る材料が非常に少なくなるからだ。

自分の思考回路に依存した、議題という入力に対してコメントという出力をするだけの存在は、まるで受動的なAIのようだ。
そうして雑多にコメントをするだけでは、将来自分が何かを成しただなんて考えないとも思う。
5chまとめやTogetterで私もコメントをすることはある。
だけどそういうことを続けていると、まるで自分がAIのような、魂のない入出力ゾンビとなったとしか思えない。
私は既に死んでいて魂はなく、何かの真理を追求しようと願った人生には本当に、何もなかったのだ。

このブログもまた雑多に何かを書いているが、絞ったテーマについて研究して書いていた以前のブログのほうが、得られるものは多かった。
備忘録的に書いてはいるものの、過去の記事に対して自分ですら大きな価値を感じていないから、読み返すのは年末年始のまとめ記事を書くときくらいだ。
他者にとっても自分にとっても価値がないのなら、一体それは……、何なんだ?

そう考えていたら、このブログの属性についてもう少し深く考えるべきなのかもしれないなという考えにも至る。

最終的に自分にとって価値があれば良い。
だけどその材料に他者からの価値・評価が大きく影響することはある。
自分のコメントに高評価が多くつくと、無意識的に高揚感があるしその議題に更に深く考えてみようという気にもなる。
下品な承認欲求であることは確かだが、その無意識の存在を否定したってしょうがない。有るものは有るんじゃないか。

私だって、褒められたいよ。どこを伸ばせば良いのか助言されたいよ。助かったと言ってもらいたい、認められたい、甘えたい。
でもそんな願いもありきたりで、価値なんて無い。
黙って、価値があることだけ発表しよう、泣きながら。
巷にある仕事の結晶の裏にも、そういう涙が存在しているんだろうな。

心理,日記

バラエティ番組の中では「月曜から夜ふかし」が好きで、録画して見てるんだけどま~~~、多くの変人が出てきますわ。
何十年も続ける割には素晴らしい成果も出ておらず「個性的な人」として映されていたり。
だけどね、やっぱりそういうのも「継続」の一つなんですよね。

自分には伝記物に出てくるような、輝かしい物語として演出されるような、向上心のある継続なんて無いと思っている。
ゲーム、読書、ネット、マンガとかはダラダラと継続しているがそれは「継続は力なり」なんて強い言葉で表されるほどの意志も無いわけで。
ゆえに悲しいかな、それらの趣味が自分の無成長さを代表するようなものとして捉えてしまうこともあるのだ。
何やってるんだろう、俺、って。

でもさあ、人間ってそういう伝記みたいな生き方をするためだけに生まれてきたのかと。
恐らく今まで、平和な時代に英雄的な素質を持った人が生まれても、素朴に人生を終えていたこともあるだろう。
素質と環境と歴史の気まぐれが合うことで記録され、未来の一部の人間がたまたまそれを知るだけ。
生前に評価されず不遇の思いで死んだ人もいるだろう、「俺はよくやった」と思いながら死んでもすぐに忘れ去られた人もいるだろう。

ルーチンで今を生きている。
決まった時間に起きて、決まった物を食べ、決まった方法で身体を洗い、定期的に部屋を掃除し買い物をし、余暇は決まった方法で過ごす。
まるで修行僧のようかもしれない。修行僧もまた、人生を費やすほどの心の探究を行い、身体や環境としてはルーチンを守って暮らしていることだろう。
継続と言えば継続だ。継続とは自他共に素晴らしいものだと実感するとは限らない。
でもまあ、これに安楽を感じる気持ちも一部にはある。

心理,日記

夏休みということで一週間旅立つことにした。
例年、お盆の人混みを避けるためこうやって少しずらして夏休みをとっている。

1人で登山に行くわけだが、昔はこういう少し死に近づくような刺激的なことをすることで、自分の命を無下に扱うような感覚に酔っていたような気がする。
「まだまだ価値のある長い人生を、こうやって簡単に捨てようとしているところが、最高にロックンロールだろ?」と。

だが今はその気持ちもかなり薄らいでいる。
死の危険の程度は今も昔も変わらない。
というか今のほうが身体がなまっている分高まっているんだけど、命に価値があることを前提とした覚悟は無い。
何だかんだ出発してしまうと、爽快感を気楽に楽しめるんだけれどね。

若いのにやる、危険なのにやる、そういう他者からの軽薄な目線で自分をキャラ付けていた。
そういう自意識過剰が今は和らいできたというのにやるってことは、さてどういうことだろう。
昔からの習慣か、はたまた、好きだからか。


そう考えると、『キャラ付け』って面白い概念だと思わないか。

キャラ付けは自分や他者を縛って自由を制限する面もあれば、「自分は~なのだから!」と発奮する材料にもなる。
以前からハマっているMBTI(16personality)なんてキャラ付けの最たるもので、「自分はINTJだから他者と上手くいかなくて普通なんだ」と思え、救われるところもある。
精神疾患も同じだな。ADHDだから、ASDだから、LDだから、うつ病だから、HSPだから、ボーダーだから、サイコパスだから。

私に信念はありません。だからキャラ付けしてください。
この世や私をそういうものだとおっしゃってください。
その行く末は、『救い』という言葉と意味になるのでしょうか?

心理,日記

4月30日は晴れの休日で、爽やかな風と澄んだ青空の中で6時間ほど歩いていた。
頭にしっかりと血が回ったこともあって、考え事も多く出来た。

やはりここ数年は、人の心理についての興味が多い。
不足感、焦燥感は昔からあり、それらは趣味とか仕事とかで解消されて疑念を持たない何者かになるのかと思いきや、そうでもないようだ。
まあ、自分から見る「何者か」ってのは、自分から見た他人の側面でしかなくて、その人が本心で何を思っているのかは知れない。
何にせよ、外的要因ではなく我が心の内的要因が解消の鍵だろう。
それは西洋哲学より遥かに前から研究している東洋哲学の考えでもある。
それを一生かけて修行するのが仏教であったりする。

ネットで他人の本音とされるものにアクセスすることが容易となった。
その中ではたまに全く理解出来ない心の動きも見られる。
それは単に説明不足だからだろうか、自分が同じ状況なら同じように思うのか思わないのか。
MBTIに出会ってからは「もしかして人同士って本質的に異なるのだろうか?」という考えが強くなってきた。
他人が妙に保守的だったり間違いだと分かっていながら他人に追従することとか、一過性の他人の評価にどうしてそこまで拘れるのか、自分よりも自分を楽しませてくれるものを作り出せる他者がいたりするのに何かを創ろうとする人がいることとか。
彼らは私と違う。違うからこそ、参考になるところがある。
彼らを模倣することで彼らの幸せをも模倣出来るところがあるのではないか、学べるところがあるのではないか?

本心のレベルで他人と心を通じ合わせる行為、それはどのような場で出来るだろうか。
最近のネットは日常に普及しすぎて逆に本心が見えづらいところもある。
とは言えTwitterや掲示板はまだまだ本心が残っているけれど。
もう少し別の場で、様々な人々の心理を学べる場はあるのだろうか。
正直最近は、宗教的な場、薬物的な場、ダークウェブ的な場とか、黎明期のネットのような奥底感がある場を探っている。

心理,日記

https://life.yurecord.com/2022/02/05/post-1635/

移動中、ふと以前理解した「受動と能動は一緒」だということを思い出していた。
今、目に見える風景、行動、やろうとしていること、無意義に生きていること。
自分にはもう生きる熱は無い、死んでいる。と思っている。

だけどこのような「熱の無さもあることも一緒である」、というのがふと心に落ちてきた。
つまり私は死んでいると考えるのと同時に生きてもいるのだ。
本当に自分は死んだものと思っていたから、まさに天啓のようなものだった。
私は、生きている、らしい。

やる気があるように思うこともあればないように思うこともあるだろう。
それらをひっくるめて「生きている」らしい。
笑いも苦しみも、希望も絶望も、等しく「生きている」
行動するもしないも、野望を持つも持たないも。
それらの区別は広大な無意識の中にぽつんと浮かぶ(有)意識が行っている。
無意識が私に垣間見せた「生きている」とは、空恐ろしくもなるくらい薄暗い広大な空間の風のようなものだ。

日記,心理

今の仕事も今月で終わる。
ありがたいことに有給も付与してくれたのだが、なんと1月に付与されるから1~3月の間に5日消化しないといけない。
6~12月の間にも5日休んだから、怠け者の自分ですら「こんなに休んでいいの……」と思ってしまう。
組織としては規定だからしょうがないらしいのだけど。
というわけで、最終勤務日は再来週くらいになりそうだ。

12月に異動してからは少し忙しくなったし少しモヤッとすることもあったが、まあ全体的には性に合っているほうなのかもしれない。
1年前と今の自分の気持ちや感受性が大きく変わったからってのもあるんだろうけどさ。
自ずとやれること、他人なら疲れることだが自分ならほとんど疲れないってことは、天性である。
データ処理とかは自分はやはり上手いほうなのかもしれない、と働いていて思う。

今の仕事の処理方法は次の仕事にも共通点はあるだろう。
事務処理だけでは終わらないかもしれない次の仕事のほうがやりがいはあるかもしれない。
でも、今の自分はそういうやりがいがあろうがなかろうがあまり関係ない、という価値観になってきている。
自分は内向的だ。
私の真実は私の中にあり、それはどこに行っても同じではなかろうか。

色々な本を読んで世界や自分への見方も整理出来た。
過去に自分が燃え尽き症候群になったのも、少しずつ悟ってきている。
様々なものに惹かれて燃えて、燃え尽きた後に残ったものにこそ注目しよう。
失ってゆくことを覚るのは怖い。でも、奥底にあるものを正しく見るには、失うことだって必要だし価値のある体験なんだと考えることも出来る。
私は死にながら生きていくしかない。

心理

家の檀家は浄土真宗だけどつい最近まで興味はなかった。
どちらかというと四国遍路等で真言宗のほうが好きだったし、更に言えばもっと原始的な仏教(上座部仏教)に興味があった。

しかし最近、飲茶が書いた東洋哲学の解説書を読んで、浄土真宗の南無阿弥陀仏を解説する歎異抄(の現代語訳)を読んでいくと、浄土真宗もかなり良い教えなのかもしれないと考え始めた。
「南無阿弥陀仏と唱えておけば極楽浄土に行けるだなんて、大乗仏教過ぎる。こんなの乱世ではない今の世にはそぐわない」
と思っていたけど、真の教えはそうじゃないかもしれない。
本来は、もっと人知を超えた無分別智のような他力を信じるということだろう。

戦国時代の武将は英雄視されて然るべき先見の明や活力を見せて、人生を自力で開いていたように思える。
しかし、辞世の句ではほんの一時の人生の哀れみを読むことが多い。
なぜ人生は虚しいという知恵があれどもあれだけのことをやったのだろう。

人生は虚しい、誰も彼もが阿弥陀仏によって救われる。
極楽浄土へ行くための修行などしなくてよい、何もなさなくて良い。
だが、何もなさぬには長すぎる。
どうせなら、遊んでみたまえ。他力の世界で自力を出しているフリをした遊びをしてみたまえ。

日記,心理

今日は阿波西国三十三観音霊場の徒歩巡礼をしていて、遂に終えた。
結願してめっちゃ達成感得られた~ってわけではなかったけどね?
でも達成感がそこまでではあっても満足感は無いかというと、そうじゃない。
やってよかったな、と思う。

最後の札所へ歩いている途中、不思議なことを考えた。

もしかして、受動的に生きることと能動的に生きることってあまり区別つかないんじゃないだろうか?

私は今、歩いている。
私は誰からも指示されず目標を設定し、それを達成しようとしている。
能動的だ、と言えるだろう。

しかし今、歩いている私はただ足を動かして目の前の風景をボケーっと見て「あっ、○○があるー」と素直に受け取っている。
ただ足を動かすだけで何かしらの刺激を得て、満足している。
これはテレビを見るだけで満足しているのとそう変わらないのではないか?

私が受動的に見ようとしているものは、実は能動的に見ている。
私が能動的に見ようとしているものは、実は受動的に見ている。

私が能動的に人生を変えようとしているのは、環境や脳の機能や記憶等の縁起によってであり、それらからの受動の結果である。
私の人生が受動的に変わろうとしているのは、環境等からの影響を撥ねつけないという能動の結果である。

私は能動と受動を両立するし、どちらも無い。
あるがまま、に?

心理,日記

仕事は、11月末で異動があって環境が変わっており、少し忙しくなった。
のは良いのだが、人間関係で「ん?」と思うことはある。
以前の職場は事務系の中年の男ばっかりだったけど、優しい人ばかりで居心地は非常に良かった。
男なのに上下関係を厳しくしない人って、もしかしたら一番良いタイプなのかも。

とは言え、今の職場も別に上下関係が厳しいわけではない。
しかし女性が多いからか、何となくやっぱり事務系の男性とはなんか違う思考回路をしており、それがたまに疲れる。
悪い意味でいい加減、悪い意味で細かいというか、注力するべきところが男と女で違う気がするのだ。

さて今日、本当にしょうもないことだとは思うけど、久しぶりに命令に抗うか、不満を抑えて命令を聞くかの判断に迷うことがあった。
小さなしょうもない書類を集めるのだが、本当にいつでも出来ることなんだから次の機会に一気に集めようと思っていたのだが、ヒステリックに「指示通りに集めろ!」という指示が飛んできた。
その書類を集める理由や時期を、自習した自分よりもよく分かってもいない。
「これって、こうですよね?」と聞いても「えっ?そうなの?」とよく分かっていないし、指示を修正もしない。
今の状況・時期で集めるだなんて効率が悪い、1,2ヶ月先のことすら効率化させようとしないのか、とも考える。
だからそういうことを全て言おう、と思ったのだが同時に、自分は勤務1ヶ月の人間であるとも考える。
結局、不満を持ちながら指示を得て、やる気なく集める作業に出た。
そうして今、その不満をここで打ち明けているのだ。

しかし怒りの感情をこちらも少し顕にしながら少ない反論をした時、同時に「あっ、今の自分にコダワリってあるんだ」と感慨を覚えた。
うつ病、統合失調症陰性症状患者のように、「拘りも生きる気力も何もないんだ」と日頃素気なく生きているわけだが、その拘りを感じることでかつてのエネルギーの源泉を感じもした。
そう言えば、1人で山に登りだしたのも、「あいつらとつるまなくたって、1人で山に登れるんだ!」という反骨心もあった。
そうか、僕には反骨心があった。
それを過ちだとは思わないで。過ぎ去りし日の自分はそれを運動する糧にしていたことが、確かにあったんだ。

心理,日記

合理主義な人間は感情を重視しない冷徹、と言われる。
では合理主義当人は感情が多いのか、少ないのか。
基本的には少ないほうだと思う。
というより、感情が少ない人間ほど「理」と呼ばれるものを代わりに価値観にするが故に、合理主義となるのではないだろうか?
合理主義でいれば感情が少なくなっていくのか、感情が少ないから合理主義となるのか。
一考の価値はあると思う。

さて私は合理主義で感情が少ない人間…だと思う。
だけどこうやって連日自分の感情の無さを考えるってことは、感情に対して価値を認めていることではないだろうか。
大事でも何でも無いと思っていることに、意識することは少ないだろう。
そういうわけで自意識としては、感情に重きを置いているが、その無さに悲しんでいる、といったところか。
そうやって悲しんでいることすら、疑問に思っていることも、感情ではある。

では今の私に何が足りないのか。
一応、感情というものはあるにはあるが、その中の一部が足りないのではないか。
おそらく、多幸感などと称されるものなのではないか。
多幸感は色々な行動や考えによってもたらされる。
寒い日に入る温泉だったり、空腹の時に食べる食べ物だったり、愛する人と一緒にいるときとかもあるらしい。
他には、薬、酒、タバコなどの化学物質を脳に作用させることでも多幸感は生まれる。

もしかしたら、人の幸せとは多幸感と呼ばれる脳内物質以外に存在しないのではないか、とも思うのだ。
どういう時に多幸感を生み出す物質を分泌するかによって人の性格や行動は決定され、環境や繁殖(連続性)に適応するものが生き残り、連続してゆく。
今の快楽ばかりを追いかけるのも、未来のことを考えるより多幸感があるから。
未来のことばかり考えるのも、今の感覚よりそういうことを考えるほうが多幸感があるから。
そういう「何となく、気持ちの良い」感覚に支配されているのではないかと。
そして、良いタイミングで多幸感を生み出すマイクロチップを脳内に埋め込めば、自分にとっても他人にとっても、思いのままに出来るのではないか、と。