日記,心理

4月30日は晴れの休日で、爽やかな風と澄んだ青空の中で6時間ほど歩いていた。
頭にしっかりと血が回ったこともあって、考え事も多く出来た。

やはりここ数年は、人の心理についての興味が多い。
不足感、焦燥感は昔からあり、それらは趣味とか仕事とかで解消されて疑念を持たない何者かになるのかと思いきや、そうでもないようだ。
まあ、自分から見る「何者か」ってのは、自分から見た他人の側面でしかなくて、その人が本心で何を思っているのかは知れない。
何にせよ、外的要因ではなく我が心の内的要因が解消の鍵だろう。
それは西洋哲学より遥かに前から研究している東洋哲学の考えでもある。
それを一生かけて修行するのが仏教であったりする。

ネットで他人の本音とされるものにアクセスすることが容易となった。
その中ではたまに全く理解出来ない心の動きも見られる。
それは単に説明不足だからだろうか、自分が同じ状況なら同じように思うのか思わないのか。
MBTIに出会ってからは「もしかして人同士って本質的に異なるのだろうか?」という考えが強くなってきた。
他人が妙に保守的だったり間違いだと分かっていながら他人に追従することとか、一過性の他人の評価にどうしてそこまで拘れるのか、自分よりも自分を楽しませてくれるものを作り出せる他者がいたりするのに何かを創ろうとする人がいることとか。
彼らは私と違う。違うからこそ、参考になるところがある。
彼らを模倣することで彼らの幸せをも模倣出来るところがあるのではないか、学べるところがあるのではないか?

本心のレベルで他人と心を通じ合わせる行為、それはどのような場で出来るだろうか。
最近のネットは日常に普及しすぎて逆に本心が見えづらいところもある。
とは言えTwitterや掲示板はまだまだ本心が残っているけれど。
もう少し別の場で、様々な人々の心理を学べる場はあるのだろうか。
正直最近は、宗教的な場、薬物的な場、ダークウェブ的な場とか、黎明期のネットのような奥底感がある場を探っている。

日記,心理

https://life.yurecord.com/2022/02/05/post-1635/

移動中、ふと以前理解した「受動と能動は一緒」だということを思い出していた。
今、目に見える風景、行動、やろうとしていること、無意義に生きていること。
自分にはもう生きる熱は無い、死んでいる。と思っている。

だけどこのような「熱の無さもあることも一緒である」、というのがふと心に落ちてきた。
つまり私は死んでいると考えるのと同時に生きてもいるのだ。
本当に自分は死んだものと思っていたから、まさに天啓のようなものだった。
私は、生きている、らしい。

やる気があるように思うこともあればないように思うこともあるだろう。
それらをひっくるめて「生きている」らしい。
笑いも苦しみも、希望も絶望も、等しく「生きている」
行動するもしないも、野望を持つも持たないも。
それらの区別は広大な無意識の中にぽつんと浮かぶ(有)意識が行っている。
無意識が私に垣間見せた「生きている」とは、空恐ろしくもなるくらい薄暗い広大な空間の風のようなものだ。

日記,心理

今の仕事も今月で終わる。
ありがたいことに有給も付与してくれたのだが、なんと1月に付与されるから1~3月の間に5日消化しないといけない。
6~12月の間にも5日休んだから、怠け者の自分ですら「こんなに休んでいいの……」と思ってしまう。
組織としては規定だからしょうがないらしいのだけど。
というわけで、最終勤務日は再来週くらいになりそうだ。

12月に異動してからは少し忙しくなったし少しモヤッとすることもあったが、まあ全体的には性に合っているほうなのかもしれない。
1年前と今の自分の気持ちや感受性が大きく変わったからってのもあるんだろうけどさ。
自ずとやれること、他人なら疲れることだが自分ならほとんど疲れないってことは、天性である。
データ処理とかは自分はやはり上手いほうなのかもしれない、と働いていて思う。

今の仕事の処理方法は次の仕事にも共通点はあるだろう。
事務処理だけでは終わらないかもしれない次の仕事のほうがやりがいはあるかもしれない。
でも、今の自分はそういうやりがいがあろうがなかろうがあまり関係ない、という価値観になってきている。
自分は内向的だ。
私の真実は私の中にあり、それはどこに行っても同じではなかろうか。

色々な本を読んで世界や自分への見方も整理出来た。
過去に自分が燃え尽き症候群になったのも、少しずつ悟ってきている。
様々なものに惹かれて燃えて、燃え尽きた後に残ったものにこそ注目しよう。
失ってゆくことを覚るのは怖い。でも、奥底にあるものを正しく見るには、失うことだって必要だし価値のある体験なんだと考えることも出来る。
私は死にながら生きていくしかない。

未分類,心理

家の檀家は浄土真宗だけどつい最近まで興味はなかった。
どちらかというと四国遍路等で真言宗のほうが好きだったし、更に言えばもっと原始的な仏教(上座部仏教)に興味があった。

しかし最近、飲茶が書いた東洋哲学の解説書を読んで、浄土真宗の南無阿弥陀仏を解説する歎異抄(の現代語訳)を読んでいくと、浄土真宗もかなり良い教えなのかもしれないと考え始めた。
「南無阿弥陀仏と唱えておけば極楽浄土に行けるだなんて、大乗仏教過ぎる。こんなの乱世ではない今の世にはそぐわない」
と思っていたけど、真の教えはそうじゃないかもしれない。
本来は、もっと人知を超えた無分別智のような他力を信じるということだろう。

戦国時代の武将は英雄視されて然るべき先見の明や活力を見せて、人生を自力で開いていたように思える。
しかし、辞世の句ではほんの一時の人生の哀れみを読むことが多い。
なぜ人生は虚しいという知恵があれどもあれだけのことをやったのだろう。

人生は虚しい、誰も彼もが阿弥陀仏によって救われる。
極楽浄土へ行くための修行などしなくてよい、何もなさなくて良い。
だが、何もなさぬには長すぎる。
どうせなら、遊んでみたまえ。他力の世界で自力を出しているフリをした遊びをしてみたまえ。

日記,心理

今日は阿波西国三十三観音霊場の徒歩巡礼をしていて、遂に終えた。
結願してめっちゃ達成感得られた~ってわけではなかったけどね?
でも達成感がそこまでではあっても満足感は無いかというと、そうじゃない。
やってよかったな、と思う。

最後の札所へ歩いている途中、不思議なことを考えた。

もしかして、受動的に生きることと能動的に生きることってあまり区別つかないんじゃないだろうか?

私は今、歩いている。
私は誰からも指示されず目標を設定し、それを達成しようとしている。
能動的だ、と言えるだろう。

しかし今、歩いている私はただ足を動かして目の前の風景をボケーっと見て「あっ、○○があるー」と素直に受け取っている。
ただ足を動かすだけで何かしらの刺激を得て、満足している。
これはテレビを見るだけで満足しているのとそう変わらないのではないか?

私が受動的に見ようとしているものは、実は能動的に見ている。
私が能動的に見ようとしているものは、実は受動的に見ている。

私が能動的に人生を変えようとしているのは、環境や脳の機能や記憶等の縁起によってであり、それらからの受動の結果である。
私の人生が受動的に変わろうとしているのは、環境等からの影響を撥ねつけないという能動の結果である。

私は能動と受動を両立するし、どちらも無い。
あるがまま、に?

日記,心理

仕事は、11月末で異動があって環境が変わっており、少し忙しくなった。
のは良いのだが、人間関係で「ん?」と思うことはある。
以前の職場は事務系の中年の男ばっかりだったけど、優しい人ばかりで居心地は非常に良かった。
男なのに上下関係を厳しくしない人って、もしかしたら一番良いタイプなのかも。

とは言え、今の職場も別に上下関係が厳しいわけではない。
しかし女性が多いからか、何となくやっぱり事務系の男性とはなんか違う思考回路をしており、それがたまに疲れる。
悪い意味でいい加減、悪い意味で細かいというか、注力するべきところが男と女で違う気がするのだ。

さて今日、本当にしょうもないことだとは思うけど、久しぶりに命令に抗うか、不満を抑えて命令を聞くかの判断に迷うことがあった。
小さなしょうもない書類を集めるのだが、本当にいつでも出来ることなんだから次の機会に一気に集めようと思っていたのだが、ヒステリックに「指示通りに集めろ!」という指示が飛んできた。
その書類を集める理由や時期を、自習した自分よりもよく分かってもいない。
「これって、こうですよね?」と聞いても「えっ?そうなの?」とよく分かっていないし、指示を修正もしない。
今の状況・時期で集めるだなんて効率が悪い、1,2ヶ月先のことすら効率化させようとしないのか、とも考える。
だからそういうことを全て言おう、と思ったのだが同時に、自分は勤務1ヶ月の人間であるとも考える。
結局、不満を持ちながら指示を得て、やる気なく集める作業に出た。
そうして今、その不満をここで打ち明けているのだ。

しかし怒りの感情をこちらも少し顕にしながら少ない反論をした時、同時に「あっ、今の自分にコダワリってあるんだ」と感慨を覚えた。
うつ病、統合失調症陰性症状患者のように、「拘りも生きる気力も何もないんだ」と日頃素気なく生きているわけだが、その拘りを感じることでかつてのエネルギーの源泉を感じもした。
そう言えば、1人で山に登りだしたのも、「あいつらとつるまなくたって、1人で山に登れるんだ!」という反骨心もあった。
そうか、僕には反骨心があった。
それを過ちだとは思わないで。過ぎ去りし日の自分はそれを運動する糧にしていたことが、確かにあったんだ。

日記,心理

合理主義な人間は感情を重視しない冷徹、と言われる。
では合理主義当人は感情が多いのか、少ないのか。
基本的には少ないほうだと思う。
というより、感情が少ない人間ほど「理」と呼ばれるものを代わりに価値観にするが故に、合理主義となるのではないだろうか?
合理主義でいれば感情が少なくなっていくのか、感情が少ないから合理主義となるのか。
一考の価値はあると思う。

さて私は合理主義で感情が少ない人間…だと思う。
だけどこうやって連日自分の感情の無さを考えるってことは、感情に対して価値を認めていることではないだろうか。
大事でも何でも無いと思っていることに、意識することは少ないだろう。
そういうわけで自意識としては、感情に重きを置いているが、その無さに悲しんでいる、といったところか。
そうやって悲しんでいることすら、疑問に思っていることも、感情ではある。

では今の私に何が足りないのか。
一応、感情というものはあるにはあるが、その中の一部が足りないのではないか。
おそらく、多幸感などと称されるものなのではないか。
多幸感は色々な行動や考えによってもたらされる。
寒い日に入る温泉だったり、空腹の時に食べる食べ物だったり、愛する人と一緒にいるときとかもあるらしい。
他には、薬、酒、タバコなどの化学物質を脳に作用させることでも多幸感は生まれる。

もしかしたら、人の幸せとは多幸感と呼ばれる脳内物質以外に存在しないのではないか、とも思うのだ。
どういう時に多幸感を生み出す物質を分泌するかによって人の性格や行動は決定され、環境や繁殖(連続性)に適応するものが生き残り、連続してゆく。
今の快楽ばかりを追いかけるのも、未来のことを考えるより多幸感があるから。
未来のことばかり考えるのも、今の感覚よりそういうことを考えるほうが多幸感があるから。
そういう「何となく、気持ちの良い」感覚に支配されているのではないかと。
そして、良いタイミングで多幸感を生み出すマイクロチップを脳内に埋め込めば、自分にとっても他人にとっても、思いのままに出来るのではないか、と。

日記,心理

心理学について自分が興味を持っている、とメタ認知していると思いついたことがある。
自分は、理解されたいんじゃないかと。

自分の心なんて他人はもちろん自分にも分からない。
だが経験上、人付き合いへの快楽を感じる神経はかなり少ないように思う。
だから「人は他者と付き合っていきたいものだ」という無根拠な説には違和感しか無い。
他者から理解されたい、なんて思いも無い、とは思っていたのだが。

自分と世間一般との感じ方の違いについて知りたい思いもあって、心理学について学んでいる。
特に精神分析は好きだ。MBTIやBig fiveが主に好きだ。
しかし様々な分析を行う時、9割は自分の性格を深く知ることに用い、特定の他人の心理の分析をしたい思いは無い。
自分は自分のことを理解したいと思っているのだろう。
そして何の疑問もなく科学をその手法としている。
つまり私は科学に対して信頼を寄せている。現実の他人よりも。
私のことを理解できるのは科学しかないのではないかと考え、期待を寄せている。

私はなぜこうも科学を信頼するか。
データを積み重ねているからだ。
結果が期待を裏切られることがある。それが良い。
無根拠で良いのなら、どんな結果だって導けるだろう。
君は幸せだということも、君は不幸だということも。

信頼は宗教心に近い。
何か信頼できるものがあればいくら孤独でも何も問題はない。
信頼できるものがないから、孤独に問題が出てくる。
うわっついた心は安定状態を求める。
なるほど、信頼というのは安定状態に至る道か。

心理

Big fiveという性格を5因子で表す手法があるが、心理学ではよく使われている。
論文などにはよく「最も信頼されている」と書かれているが、その信頼性を評価した論文は見つけていないが。

さてその5因子の中には「神経症性」というものがあるが、これが高ければ鬱病になりやすく、幸福だと感じにくくなる。
高ければ自罰的・他罰的になり、自分にも他人も悪影響を与える。
と、いくつかの論文を読んでもその因子の良さというものをなかなか感じることが出来ない。
ゆえにこの因子は低いほど良いとされる傾向にある。

公務員試験などに使われるYG性格検査は、ビッグファイブの外向性と神経症性の2つのみを測って、それぞれの高低+中間の5タイプに分けるものだと、後になって判明してきている。
そのYG性格検査では、内向的かつ神経症ならばアーティスト系が向いているとされ、外交的かつ神経症ならば非常に行動的だがチームの形成には向かないタイプとされる。
それ以外は、地道な活動や協調性を持って行動するのが得意とされる。
自分は内向的かつ反神経症的のCタイプだった。

とは言え性格診断というのはその時々の気分によっても結果は変わるものだ。
だから、もし自分が外交的気分になったら、どのような人間となるのだろうとの予測がある程度つけるかもしれないな。
今の自分は数ヶ月前の自分と比べて、神経症性は低くなって気分はいくらか安定していると思う。
だけど思うのは、神経症的だった数ヶ月前のほうが鬼気迫る行動力・目的に向かって一心不乱に努力する傾向があったように思う。
あの時はその気分を全力で解消しようと、進路について努力できる限りを尽くしたし、心を落ち着けるような考えを書いた本を全力で読んだ。
今は気分が安定しているからこそ、集中力が少なくなってダラダラと読書をしている。
4月から行う仕事に対しての準備も考えてはいない。
自分と他者の違いや自己への追求も、のんびりとやっている。

確かに状況が違うから動機が変わってくるだろう。
だが集中力の度合いは今と数ヶ月前は違う気がする。
鬼気迫る集中力というのは、神経症的性格や気分によって生まれるのではないか、という仮説を立てている。
だからといって神経症的集中力ばかり発揮したり他人に発揮させたりしていれば、自罰性も他罰性も多くなって自分や社会は自壊していくことだろう。
人はこの力を、どうやれば安全に使えるだろうか?

日記,心理

徳島に戻ってきた理由、それは郷愁も関与している。
それ以来、そういう感情、喜怒哀楽では済まされない高次なのか原初なのか分からない心理についての興味を持ち出した。

仏教や分析心理学なんかを少しずつ学んで自分の心をサンプルにして探求しているが、まだあまり分かっていない。
しかしおそらく、この感情のジャンルは「意識の感覚」の内に入るのだと思っている。
例えば特定の風景や絵を見て、「美しい」と感じる、それは何か?
刺激としては視覚が大きいだろう。目を瞑っていても絵を美しいと思うか?
だが、その視覚情報を頭に入れて沸き起こる感覚、それが意識の感覚のようなものだと思っている。
般若心経では意識も感覚器官としているが、その意識による作用、なのではないか。

そういう意識の感覚も「空」だとされるが、しかしその前にまずは意識というものを知ることから歩まねばその先へはいけないはずだ。
過去をふっと思い出して幸せの原風景を思い浮かんで、言葉には出来ない何かが心と身体に押し寄せてくる、その感覚ってなんだ。
いや、全ての感覚は言葉には出来ない。
自分と他人の見ている景色が実は違っているという考え方の如く。

最近はそういう意識の感覚について、瞑想を通じて追求している。