日記

本日誕生日を迎えて、33歳になりました。

誰にも言ってないのでもちろん祝われません。
祝うようなものでもありません。

33歳、ゾロ目の年ですね。

前回のゾロ目の年、22歳の頃はどんなだったかな。
何となく大学院に進学しようとしていたけど、研究室の生活が好きになれなかったので進路に悩んでいた頃です。
とりあえず大学院には行ったけど研究へのやる気は出ず、公務員試験を受けたり歩き遍路を40日感かけて行ったりしてましたね。

そうそう、この年末年始、小豆島遍路に行く計画を立ててます。
150kmほど、約一週間の徒歩旅行。
歩き遍路を行って以来、徒歩旅行をするようになりました。
名古屋二十一大師巡礼、阿波西国三十三箇所巡礼などなど。
年末年始のような登山に行きにくい時期は、徒歩旅行に費やそうかななんて。

30歳になってから心身ともに老いを感じるようになりましたが、最近もやっぱり感じてます。
特に、腰が痛むようになりました……
やっぱり座り仕事はこうなりますね。
たまに体を動かすようなのが一番良いんだけど、わざわざ時間をとって筋トレするのもなあ……
その時間あったら読書とかしたい、ってこのこと何度日記に書いたことやら。

誕生日ということで毎年何かはやってるんですが、今回はケーキすら食べず。
でも一応近所の飲食店で生中と普通の食事をとりました。
いつも自炊だから、まあ良いよね。
誕生日なんだから我慢していたことをやればいい、と思うけれどやりたいと思いついたことは大抵すぐにやっているしなあ……
やってないのは、面倒臭さが勝るからであって。お金をいっぱい我慢しているわけじゃない。

せっかくだから最近考えていることも書きましょう。
私は慢性的な虚無感を抱いています。そしてこの虚無感をどうにかしたいな、って思ってます。
でもね、この虚無感もまた「感」の一つです。無意識の感情です。存在です。
虚無感を抱く、が故に何かをしようとする。虚無感を抱かねば何かをしようとしない。
ん?私にとって何かをする、というのは価値あるものと思っているのか、と気づく。
何かをしたい、何をすべきか、心の底から信じられる何かを見つけたい、それは今の年齢の半分の頃から思っています。
そんな絶対的な何かなんて無いんだけど、それを求める心こそが無意識的に湧き上がる何かの一種でもあるのか、というところまで至っているのです。

そんな33歳でした。

お金

独身アパート暮らし、30代の男の家計簿を載せます。

秋も深まり斜光が淡く地上を照らす11月、優しい光の過ごしやすい季節ですが、週末は仕事している時が多かったのであまり遊びに行けていません。 やはり淡々と過ごしていました。 アイキャッチは香川のこんぴらさんの山頂付近。

収支内訳

収入 222,895円
給与収入(手取り) 204,422円
資産運用益 14円
ネット収入 18,459円
雑収入 0円
   
支出 103,053円
食費 19,909円
雑貨費 0円
車両交通費 4,908円
医療費 0円
保険 0円
服飾費 0円
交際費 0円
娯楽費 23,596円
通信費 2,101円
雑費 0円
家賃 45,000円
水光熱費 7,539円
   
当期純利益 119,842円

収入と仕事について

いつものごとくあまり残業しない人ですから、10月もあまり残業しなくて11月分はいつもどおりの給料。
でもこの時期書いている12月はちょっと忙しくて30分~1時間ほど残業しているから、1月分は若干増えるかも。

11月は皆にとって過ごしやすいからかイベントが多く、その運営のために休日に出動させられていました。
振替休日はもらうんだけれど。
全国旅行支援割もあるんだからもっと旅行行きたいんだけど、石見銀山・津和野への1泊2日ツーリングやったくらいとなりました。
香川のこんぴらにも行きました。青空と紅葉の美しい、良い時期だ……

支出について

雑貨や衣類などを買わない物欲の無い月でした。
まあ10,11月は室内にいた時は風来のシレン5を延々とプレイしていましたからね……
コスパの良い趣味でもある反面、時間泥棒です。

家賃抜いたら支出は月約6万円か。
娯楽費は、こんなもんだよね?

11月の生活について

11月もまあ上記のとおり淡々としたものです。
文化的なイベントが多くてなかなか染み入るものを感じもします。

旅行に行くと、青空と地形の向こうを想像することに旅情を感じます。
あの丘の向こう、あの山の向こうに人々はどんな夢を持ったことだろう。
変わってゆく季節と共に私達もまた変わっていって、と。
あの頃の紅葉を見て感じたことと今紅葉を見て感じたことは違うようで同じようで。

しみじみと昔のことも思い出すのです。

日記

数日前に祖母が亡くなりました。
享年94歳。
本日葬式でした。

この数年はまともに会話した記憶も無いほどの繋がりだったけど、もちろん直系の親族だから私の人生に関わっていた時もある。
私もこんな年(30代)だから人はいつか死ぬだなんて分かっていたし、そろそろ誰か亡くなるだろうと思っていた。
だけど近い親族が亡くなったのは生まれて初めてなので考えることもある。
平均寿命以上生きたんだから早すぎた別れ、ってわけでもないから悲しみや哀れさの気持ちは少ないんだけど。

ドラマなどで見るような感情がまだ湧いていなくて拍子抜け。
でもこのまま忘れてしまうのはやっぱり忍びないな。
そういうわけで、思い出せるだけ祖母に関する記憶を思い出してみよう。


祖母はかなり若い時に夫(祖父)を亡くし、女手一人で4人の子供を育て上げた。
農家をしていて、子供が小さい頃はどう頑張っていたかは不明だが、長男が大きくなって農家を継いでからは少し楽になったようだ。
以降、長男が父代わりになって下の兄弟の面倒を見ていたらしい。
祖母は再婚はせずにいた。

祖母の思い出は私が小学生低学年くらいの頃から少しずつ残っている。
もうその時には「おばあちゃん」という感じで、末っ子(母)の末っ子(私)の年の離れた孫だからというのもある。
子供らしい現世利益らしい思い出だが、少し遊びに行く程度の訪問で毎回千円くれていた記憶が強く残っている。
大抵は墓参りの時に祖母宅に行っていたから、線香の匂いと家の裏にある墓と農場の風景も頭に残る。

祖母宅はその時2世帯住宅で、祖母だけは離れで暮らしており仕事や食事では長男家族のいる新宅で行っていた。
離れと言っても、本当にすぐ近くなんだけど。
新宅は農家らしく非常に大きい。
広い作業場も併設しており、たまにアルバイトも雇っている。

私個人が親無しに祖母に関わったのは、高校2年生の頃にバイクの運転免許を取るために教習所に通っていた頃。
あの時は春休みで、アルバイトと教習所通いを同時並行で行っていたから少しだけ不規則な生活だった。
何分教習所の技能講習の予約で大きく左右されていたな。
そのような生活を送っていると実家で昼食を取れないときがどうしても出てくる。
だからそんなときには祖母宅に立ち寄って昼食を摂った。食事を作ってくれたのが、祖母だったわけだ。
今となってはどんなものを食べたのかは忘れてしまったが、まあ本当に日常的なメニューだったと思う。
煮物、卵焼き……そんなものだったかな?

大学生以降は年末年始だったり法事の時だったりに少し会う程度。
その時にはもう長男の息子の子供、つまりひ孫が出来ていたので、ひ孫に構うことが多かった。
私とは「最近どうしてるの?」みたいなよくある会話を少しだけするくらいだった。
結局、私と祖母との思い出はそのくらいだ。


祖母の子、つまり私の母世代の話を横で聞いていると、祖母の性格はたまに困るもののようだった。
烈火の如く怒るとか偏屈ババアとか、そういうタイプではなく、あまり人の話を聞かず主張したいことは主張するといったタイプらしい。
だから私の母も祖母のことを好きではない、と言っていた。

私自身は別に祖母が嫌いではないが、具体的な内容は忘れたが少し気遣いの無い発言をされたことは覚えている。
悪意みたいなものは感じなかったはずだから、それだけで嫌いになったことも無かった、はずだ。

年を取り、農業を手伝うことも少なくなってからはデイケアに通うようになった。
まあ家でいるよりかは良かったらしい。
その後は体を弱くもなり、病院への入退院を繰り返し、この度の入院中に肺を患って亡くなったらしい。


私自身は1年と数ヶ月前に実家と疎遠な関係となった。
きっかけは、まあそれも気遣いの無いことを言われたからだ。
母が祖母を嫌うように、私も同じような理由で嫌おう。
同じなんだよ。格好悪いのは、確かにそうだよ。

そういう訳で関係を断っていたので親戚との集まりは久しぶりなものとなった。
我々の世代はすっかり中年の域に足を踏み入れ、その子供の世代が大人の域に、親の世代が老人の域に足を踏み入れている。
姿かたちも変わったものだ。

昔からそうだったが、相も変わらずこういう場が楽しいとは思えない。
私の神経にはこういう場に対して快楽を感じる回路が無いんだなとつくづく感じる。
別にその場の個人個人が悪い訳では無いことは確かだが。
親戚と言えど所詮は血以外の共通点が無い他人だしな。

食事会では豪華な弁当が出たが、黙々と食べてその後はスマホで暇を潰していた。
どうせなら僧侶の法話でも聞ければと思っていたんだが、冬は死者が増えるのか分からないが忙しそうで、お話も少しだけだった。

親族を車で家に戻し、自分は実家で着替えて早々にアパートへ帰ることとした。
本格的な冬がやってきた2022年12月1日、身も心も冷やしながらバイクを走らせた。