日記

などと、過去を思い返してみると判明してしまった。

こういうブログを書くのは15年も続けているんだけど、チャットはおろか2chレベルですらネット上の双方向性メディア上で発信・受信者にはなっていない。
Twitterのアカウントは持っているしほぼ毎日見てはいるけど、99%情報受信用で、他者との対話は無い。

ネットの中では発言はするさ。
でもそれは議題に対してコメントするだけで、そのコメントに対してコメントを受けてさらに対話を続けたいなんて気を、持ったことがないのだ。
「あっ、○○さん、いつもありがとうございます!そうですよね、○○だと~」なんてありきたりな対話も、ブログでやったことないような……

 

なんでこんなことまた考えたのかというと、また婚活をゆるりと再開しているわけなんです。
で、改めてコミュニケーションについて、自分のコミュニケーション歴とかやる気はあるのか?を考えてみているわけなんです。

最近の自分は、「人間の性格は無意識と称される思考回路によって規定される。とある行動を取ると快感を感じるか、不快を感じるか、そういうので性格と行動は決定される」
と思っているのです。
故に、やりたいことを制限されていなければ人は自ずと快感を感じることを実行に移している、と考えます。
そうすると、これだけ長くネットをやっていながら、制限もされてないのに、ネット上で他人とのコミュニケーションを図るということをしないため、自分はそれらに対して快感を感じない性格である可能性が高い。
だから何も努力せずに無意識に任せるだけでは、ネットだけで結婚相手を探すなんてことは私には非常に難しい気がします。

仕事では社用車に自分ともう一人の2人で乗る時は、それなりに会話しています。
でも3人くらいになるとかなり抑え気味になります。
3人になると黙るのは昔からありがち、あと「コミュ障」にもありがちw

 

 

それらから導き出される自分の戦略は……

 

何でしょうね?

日記

本日誕生日を迎えて、33歳になりました。

誰にも言ってないのでもちろん祝われません。
祝うようなものでもありません。

33歳、ゾロ目の年ですね。

前回のゾロ目の年、22歳の頃はどんなだったかな。
何となく大学院に進学しようとしていたけど、研究室の生活が好きになれなかったので進路に悩んでいた頃です。
とりあえず大学院には行ったけど研究へのやる気は出ず、公務員試験を受けたり歩き遍路を40日感かけて行ったりしてましたね。

そうそう、この年末年始、小豆島遍路に行く計画を立ててます。
150kmほど、約一週間の徒歩旅行。
歩き遍路を行って以来、徒歩旅行をするようになりました。
名古屋二十一大師巡礼、阿波西国三十三箇所巡礼などなど。
年末年始のような登山に行きにくい時期は、徒歩旅行に費やそうかななんて。

30歳になってから心身ともに老いを感じるようになりましたが、最近もやっぱり感じてます。
特に、腰が痛むようになりました……
やっぱり座り仕事はこうなりますね。
たまに体を動かすようなのが一番良いんだけど、わざわざ時間をとって筋トレするのもなあ……
その時間あったら読書とかしたい、ってこのこと何度日記に書いたことやら。

誕生日ということで毎年何かはやってるんですが、今回はケーキすら食べず。
でも一応近所の飲食店で生中と普通の食事をとりました。
いつも自炊だから、まあ良いよね。
誕生日なんだから我慢していたことをやればいい、と思うけれどやりたいと思いついたことは大抵すぐにやっているしなあ……
やってないのは、面倒臭さが勝るからであって。お金をいっぱい我慢しているわけじゃない。

せっかくだから最近考えていることも書きましょう。
私は慢性的な虚無感を抱いています。そしてこの虚無感をどうにかしたいな、って思ってます。
でもね、この虚無感もまた「感」の一つです。無意識の感情です。存在です。
虚無感を抱く、が故に何かをしようとする。虚無感を抱かねば何かをしようとしない。
ん?私にとって何かをする、というのは価値あるものと思っているのか、と気づく。
何かをしたい、何をすべきか、心の底から信じられる何かを見つけたい、それは今の年齢の半分の頃から思っています。
そんな絶対的な何かなんて無いんだけど、それを求める心こそが無意識的に湧き上がる何かの一種でもあるのか、というところまで至っているのです。

そんな33歳でした。

日記

数日前に祖母が亡くなりました。
享年94歳。
本日葬式でした。

この数年はまともに会話した記憶も無いほどの繋がりだったけど、もちろん直系の親族だから私の人生に関わっていた時もある。
私もこんな年(30代)だから人はいつか死ぬだなんて分かっていたし、そろそろ誰か亡くなるだろうと思っていた。
だけど近い親族が亡くなったのは生まれて初めてなので考えることもある。
平均寿命以上生きたんだから早すぎた別れ、ってわけでもないから悲しみや哀れさの気持ちは少ないんだけど。

ドラマなどで見るような感情がまだ湧いていなくて拍子抜け。
でもこのまま忘れてしまうのはやっぱり忍びないな。
そういうわけで、思い出せるだけ祖母に関する記憶を思い出してみよう。


祖母はかなり若い時に夫(祖父)を亡くし、女手一人で4人の子供を育て上げた。
農家をしていて、子供が小さい頃はどう頑張っていたかは不明だが、長男が大きくなって農家を継いでからは少し楽になったようだ。
以降、長男が父代わりになって下の兄弟の面倒を見ていたらしい。
祖母は再婚はせずにいた。

祖母の思い出は私が小学生低学年くらいの頃から少しずつ残っている。
もうその時には「おばあちゃん」という感じで、末っ子(母)の末っ子(私)の年の離れた孫だからというのもある。
子供らしい現世利益らしい思い出だが、少し遊びに行く程度の訪問で毎回千円くれていた記憶が強く残っている。
大抵は墓参りの時に祖母宅に行っていたから、線香の匂いと家の裏にある墓と農場の風景も頭に残る。

祖母宅はその時2世帯住宅で、祖母だけは離れで暮らしており仕事や食事では長男家族のいる新宅で行っていた。
離れと言っても、本当にすぐ近くなんだけど。
新宅は農家らしく非常に大きい。
広い作業場も併設しており、たまにアルバイトも雇っている。

私個人が親無しに祖母に関わったのは、高校2年生の頃にバイクの運転免許を取るために教習所に通っていた頃。
あの時は春休みで、アルバイトと教習所通いを同時並行で行っていたから少しだけ不規則な生活だった。
何分教習所の技能講習の予約で大きく左右されていたな。
そのような生活を送っていると実家で昼食を取れないときがどうしても出てくる。
だからそんなときには祖母宅に立ち寄って昼食を摂った。食事を作ってくれたのが、祖母だったわけだ。
今となってはどんなものを食べたのかは忘れてしまったが、まあ本当に日常的なメニューだったと思う。
煮物、卵焼き……そんなものだったかな?

大学生以降は年末年始だったり法事の時だったりに少し会う程度。
その時にはもう長男の息子の子供、つまりひ孫が出来ていたので、ひ孫に構うことが多かった。
私とは「最近どうしてるの?」みたいなよくある会話を少しだけするくらいだった。
結局、私と祖母との思い出はそのくらいだ。


祖母の子、つまり私の母世代の話を横で聞いていると、祖母の性格はたまに困るもののようだった。
烈火の如く怒るとか偏屈ババアとか、そういうタイプではなく、あまり人の話を聞かず主張したいことは主張するといったタイプらしい。
だから私の母も祖母のことを好きではない、と言っていた。

私自身は別に祖母が嫌いではないが、具体的な内容は忘れたが少し気遣いの無い発言をされたことは覚えている。
悪意みたいなものは感じなかったはずだから、それだけで嫌いになったことも無かった、はずだ。

年を取り、農業を手伝うことも少なくなってからはデイケアに通うようになった。
まあ家でいるよりかは良かったらしい。
その後は体を弱くもなり、病院への入退院を繰り返し、この度の入院中に肺を患って亡くなったらしい。


私自身は1年と数ヶ月前に実家と疎遠な関係となった。
きっかけは、まあそれも気遣いの無いことを言われたからだ。
母が祖母を嫌うように、私も同じような理由で嫌おう。
同じなんだよ。格好悪いのは、確かにそうだよ。

そういう訳で関係を断っていたので親戚との集まりは久しぶりなものとなった。
我々の世代はすっかり中年の域に足を踏み入れ、その子供の世代が大人の域に、親の世代が老人の域に足を踏み入れている。
姿かたちも変わったものだ。

昔からそうだったが、相も変わらずこういう場が楽しいとは思えない。
私の神経にはこういう場に対して快楽を感じる回路が無いんだなとつくづく感じる。
別にその場の個人個人が悪い訳では無いことは確かだが。
親戚と言えど所詮は血以外の共通点が無い他人だしな。

食事会では豪華な弁当が出たが、黙々と食べてその後はスマホで暇を潰していた。
どうせなら僧侶の法話でも聞ければと思っていたんだが、冬は死者が増えるのか分からないが忙しそうで、お話も少しだけだった。

親族を車で家に戻し、自分は実家で着替えて早々にアパートへ帰ることとした。
本格的な冬がやってきた2022年12月1日、身も心も冷やしながらバイクを走らせた。

日記

10月は東京行ったりしてイベントも無くは無かったのだが、何だか気分が乗らないというかゲームとかばっかりやってこともあったので日記は全く書かなかった。
Twitterもつぶやく頻度はかなり少なく、情報収集のためだけに使っていた。
何だか、発信欲や記録欲が減りつつある。

欲自体が少ないので日記を書かなかったりしても吐き出すことが無くてモヤモヤする、なんてことも起きず。
一人が板につきすぎた……?

昔はさあ、グーグル検索がまだ生きていて、流行り以外のものでも同士を見つけやすかった。
古い名作を改めて読んでその感想を検索すると、深みのあるものを見つけることが出来ていた。
それが今や、全く異なる作品や意図で検索を捻じ曲げられたり、当たり障りのないwikipedia以下のものしか書けてないものばかりが上位に来るようになっていると感じる。
大多数派の、最小公倍数の全く刺さらないものばかりになって、刺さるものが埋もれて見つけることが出来なくなったのなら、私も同士に対して発信しようと思わなくなるさ。

そうだ、昔はネット以外がメジャーで、ネットがサブカルチャーだった。
今はもうネットもメジャーだ。サブは追いやられた。
サイトごとに住民が異なるからサブの人々はほそぼそと生きてはいるが、同志同士で固まることはもう出来なくなったようにも思う。

また、研究したり学んだりして好きな人々に貢献したいよ。
昔の個人専門店が田舎に多くあったのはさあ、自分の興味や技能を活かして小さなコミュニティに貢献するためだったんじゃないか。
それが居場所の感覚にもなる。

今は自分一人という、コミュニティではない居場所に対して記述しているだけのようだ。
貢献の感覚や求められることがあれば、私だってもっと読んでいてタメになりそうなことを然るべき場所で書くよ。

心理,日記

バラエティ番組の中では「月曜から夜ふかし」が好きで、録画して見てるんだけどま~~~、多くの変人が出てきますわ。
何十年も続ける割には素晴らしい成果も出ておらず「個性的な人」として映されていたり。
だけどね、やっぱりそういうのも「継続」の一つなんですよね。

自分には伝記物に出てくるような、輝かしい物語として演出されるような、向上心のある継続なんて無いと思っている。
ゲーム、読書、ネット、マンガとかはダラダラと継続しているがそれは「継続は力なり」なんて強い言葉で表されるほどの意志も無いわけで。
ゆえに悲しいかな、それらの趣味が自分の無成長さを代表するようなものとして捉えてしまうこともあるのだ。
何やってるんだろう、俺、って。

でもさあ、人間ってそういう伝記みたいな生き方をするためだけに生まれてきたのかと。
恐らく今まで、平和な時代に英雄的な素質を持った人が生まれても、素朴に人生を終えていたこともあるだろう。
素質と環境と歴史の気まぐれが合うことで記録され、未来の一部の人間がたまたまそれを知るだけ。
生前に評価されず不遇の思いで死んだ人もいるだろう、「俺はよくやった」と思いながら死んでもすぐに忘れ去られた人もいるだろう。

ルーチンで今を生きている。
決まった時間に起きて、決まった物を食べ、決まった方法で身体を洗い、定期的に部屋を掃除し買い物をし、余暇は決まった方法で過ごす。
まるで修行僧のようかもしれない。修行僧もまた、人生を費やすほどの心の探究を行い、身体や環境としてはルーチンを守って暮らしていることだろう。
継続と言えば継続だ。継続とは自他共に素晴らしいものだと実感するとは限らない。
でもまあ、これに安楽を感じる気持ちも一部にはある。

日記

今使っているノートパソコンの液晶が壊れて緑色+残像が残るようになっている。
前々から「ゲーミングPCが欲しいなあ」と思っていたから、この際買うことにした。
探し始めて3日、遂に発注した。

職場から帰宅する度に様々な販売サイトや品を見て吟味して、絞り込んでいく。
チェックポイントは以下の通りだ。

  • GPX1650程度以上
  • メモリ16GB
  • windows11(に更新可能)
  • →windows11に更新可能かどうかは、主にCPUの世代が関与する。
  • →→そして世代によってソケットも異なることも多い。ソケットが異なるとマザーボードも替えないといけない。
  • なるべく小型
  • 10万円以内で安いもの

やはり小さいものが良いのでAmazonで売られているミニPCも良さそうだったんだけど、GPUが搭載されているものが少ないし高価。
CPUは最新のものが多いんだけれど。良いものも多いんだけれど。

ヤフオク・メルカリで探してみたら品数は多いが、CPUの世代が古いものが多い。
価格は非常に安く、3万円でも今使っているノートパソコンオンボード(intel HDグラフィックス4600)よりかは出来るゲームが多いと思う。
そんな中でひたすらCPUの世代を見まくって絞り込んでいく……

3つほどに絞り込んで詳細なスペックを比較すると、ほぼ同程度。
僅かな価格差で最終的には以下のものを選ぶ。

  • CPU:Core i5 9400F
  • GPU:GTX 1060 3GB
  • メモリ:16GB
  • サイズ:ミニタワー
  • 価格:5万円以下

今のノートパソコンはCore i5 4210M、メモリは8GB。
中古で2万+メモリ増設とSSD換装とかで10000円ほど使ったので3万円くらいか。
こんなんでも最低画質とかにすればSteamのゲームは動いていたから、スペック不足に悩みまくることってのはかなり少なくなる、はず……。
今のクソ雑魚ノーパソでもFF10 HD動いてたしね。(解像度低くしていたからHDの意味が無いレベルだが)

こんな歳になっても未だにゲームやってるのも不思議なもんだが、やっぱり面白いからしょうがないよね!

日記

ということを最近考えているんだけど、要は婚活である。

でもなあ……やる気ないんだよな。
見ず知らずの人に愛想良く?
見知っている人にすら愛想良くとか興味を持つとかが最も苦手な行為の私であるというのに!

じゃあ、このままの生活でいいのかと問われると、それもまた微妙だ。
今のような感じの生活が終生続くことになるだろう。
1人で旅行して、テレビ見て、食事して、読書したりゲームしたりして。
生活に変化がない。活気も欲しい、だから結婚に幾分かの期待はある。
そういう変化の機能が欲しいだけで、でも別に人間が欲しいわけじゃあないんだよなあ。

まあ婚活とかそういう活動を楽しいと思えるのがモチベーション維持に最も良いんだろうけど、楽しいと思える要素あるか?
女性の方々も長年の婚活に疲弊しているとか聞くが、楽しそうとはやはり思えないな。
皆が苦しむために活動している?苦しみからは避けたいと思うのが人間の常でもあろう。
思えばまともな就活もしなかった自分だ。歴史が私のそういう活動からの逃避を証明している。
だのに、こうやって一応仕事はしているってのは、他人と自分の差とは何だろうな。

で、どうするの。
マッチングアプリを少しやってみたけど、うん、弱者メンヘラ男性の僕には負けることが分かりきっている、と感じる。
もっと強引にくっつけるような圧力の働く場所が良いんだろうか?例えば結婚相談所とか?
そしてホームページを見てみる。ああ、皆、爽やかそうだねえ!
どういう人が集まるんだろうね。マッチングアプリより内向的な人?手助けが必要な人?

以上のようなことを趣味を堪能しながら考えている。
明らかに楽しみには邪魔な思考だ。
ザックリと切り捨てるか、やるかになるんじゃないか?
ウジウジと悩んでいるのは人生がもったいないじゃないか。
……ああ。

心理,日記

夏休みということで一週間旅立つことにした。
例年、お盆の人混みを避けるためこうやって少しずらして夏休みをとっている。

1人で登山に行くわけだが、昔はこういう少し死に近づくような刺激的なことをすることで、自分の命を無下に扱うような感覚に酔っていたような気がする。
「まだまだ価値のある長い人生を、こうやって簡単に捨てようとしているところが、最高にロックンロールだろ?」と。

だが今はその気持ちもかなり薄らいでいる。
死の危険の程度は今も昔も変わらない。
というか今のほうが身体がなまっている分高まっているんだけど、命に価値があることを前提とした覚悟は無い。
何だかんだ出発してしまうと、爽快感を気楽に楽しめるんだけれどね。

若いのにやる、危険なのにやる、そういう他者からの軽薄な目線で自分をキャラ付けていた。
そういう自意識過剰が今は和らいできたというのにやるってことは、さてどういうことだろう。
昔からの習慣か、はたまた、好きだからか。


そう考えると、『キャラ付け』って面白い概念だと思わないか。

キャラ付けは自分や他者を縛って自由を制限する面もあれば、「自分は~なのだから!」と発奮する材料にもなる。
以前からハマっているMBTI(16personality)なんてキャラ付けの最たるもので、「自分はINTJだから他者と上手くいかなくて普通なんだ」と思え、救われるところもある。
精神疾患も同じだな。ADHDだから、ASDだから、LDだから、うつ病だから、HSPだから、ボーダーだから、サイコパスだから。

私に信念はありません。だからキャラ付けしてください。
この世や私をそういうものだとおっしゃってください。
その行く末は、『救い』という言葉と意味になるのでしょうか?

日記

昔から祭りの類はそこまで興味無かったけど、気軽に非日常のイベントを味わおうとして、見に行くくらいはするようになった。
もちろん1人で。

子供の頃は花火の衝撃ですぐにお腹が痛くなっていたけど、身体が大きくなったからか脂肪が溜まったのかは知らんが耐えられるようになった。
むしろこの衝撃が、自分が現地にいること、ライブ感ってやつ?を感じさせてくれる。
テレビなんかじゃあ表現できないものね。
花火大会は地方のものだったけど、この地域にこれだけの若者がいたのか、って驚くくらい若者たちも来ていた。
おじさん、若い子たちのエネルギッシュなところを見ていたらこっちも滾ってきちゃうよ!


徳島市の阿波踊りを見に行ったのは実は今年が初めてで、いつも人混みがひどくて敬遠していた。
でも今回はコロナで3年ぶり、規模縮小というわけで行ってみることにした。
単に他にやることがなかっただけ、ってのもあるんだけど。

徳島県最大のイベント、というわけで県内全体で演出している雰囲気が確かにあって、汽車で徳島駅へ向かう途中でもアナウンスは阿波踊り仕様だし、浴衣姿の人々も多く見かけた。
徳島駅なんてまさに阿波踊りで一色だ。
駅から会場は近く、その途上にも露天は多い。
少し早めに着いたのでついでにアミコで紀伊国屋書店でフラフラ物色。

阿波踊りは基本的に有料演舞場と無料演舞場があるんだけど、特に予約も何もしていないし拘りも無いので、最初は両国橋の無料演舞場へ。
ああ、このライブ感、というよりフローってやつ?演者が演じ、観客がそれに共感して、何だか一種の儀式のような恍惚感。
これが祭りってやつなのか。今更それを肌で感じて気づいた気がする。
つまりこれは、「酔い」である。祭りとは、共感を利用した酩酊状態へ至る場だ。

とは言え共感力が死んでいる陰キャの自分は、始まって2時間で疲労感が出てきた。
演舞が完全に終わる前に帰途に着いた。

日記

適当、ここでは適したという意味ではなくて「大雑把」という意味である。

変なルートで自分の婚活欲が再燃してきた。
いやあの、らおん先生の婚活漫画で……
先生は反面教師として優れているし、徹底的に無自覚なゲスな自分を描写しているからかその対照的に女性が魅力的に見えてきた。
あんなんでもいけるなら自分でもいけるんじゃないか?と思えてしまうので。

確かに自分には弱い力だが確実に、結婚欲が居続けている。
一生独身が良いだなんて心の奥底から決断出来るわけではない。
でも、行動に繋がるわけでもない。

婚活するならどの方法が良いだろう。
ガツガツといかないといけない方法は向いてないだろう。
結婚欲があっても面倒臭さが優れば面倒くさくなるだけだ。
いくつかの方法をつまみ食いしてきたが、とりあえずやったことのない方法を取ってみよう。
例えば、結婚相談所。
他の方法よりも金がかかるが、今のところ金を使うあても無いし、まあ別に良いかと思える。
結婚相談所は他の方法より結婚へのやる気が高い女性が集まるようで、ダラダラと続けたいわけじゃないならいい方法かもしれない。

でも、結婚相談所にいる女性ってどんな感じなんだろう。
個人的に、細かい事を押し付けてくる人や普通・常識に拘る人、度胸が無さすぎる人は嫌いだ。
ってそれ、今の職場の典型的なタイプじゃん。そう考えたら職場結婚の見込みも無い。

どっちかってーと適当な女性が好きだ。
出来るなら、意気消沈している自分に人生は面白いと思わせてくれるような。
そんなの、あの世くらいしかいないか。