日記

2023年の3月後半から1ヵ月ほど、人生で初めて短編小説を書いておりました。
書いたものは、とある賞に投稿しました。

https://life.yurecord.com/2023/04/30/post-1920/

結果は、1次選考通過、2次選考落ちです。

約400作の応募中、50作が一次選考を通過し、その内の16作が二次選考通過。
二次選考通過の中から、3賞が選ばれます。今年は2作が受賞。

 

「もしかして、取材が来るかも?😖」

なんて思っていましたが、やっぱり杞憂というか、思い上がりです。
まあ、そんなもんだよね……

 

とは言え、ウェブサイトに一次選考通過作品が列記されており、その中に自分の名前を発見した時は、

「アッ、ア~~~~~~~~見ちゃらめええ!!

と、嬉しいやら恥ずかしいやら!

 

二次選考を通過出来なかった原因はいくらか思い当たるのです。

  • 純粋に物書きとしての技量不足、描写不足、読者目線不足
  • 所謂、「小説らしい」文体じゃなかった(全て一人語り)
  • ビターエンドで、明るく終わるものではなかった

私の小説はしんみりと切ない、救いも少ない進行としたので、大衆小説を求めたこの賞にはそぐわなかったのだと思う。
大賞を受賞したら地元新聞に載るようなのですが、そこに軽く地元を貶すような小説を載せるか?載せんわい。
そういうところをちゃんと選考委員は見ていたんだろうなと思う。

しかしまあ、執筆の経験もなかなか悪くはないものでした。
他人の目線を一切考えず、好きなように作る、ってのは自分には向いてません。
快楽だけで創作を始めると、まず間違いなく作品が完成しない。粗方完成したらそれで満足しちゃうもの。
というわけでこういう賞であったり多くの人が審査してくれる場であったりに出すことを目標にして、創るってのが性格上合っているのだと思う。

だから、また何か書きます。

次はねえ、雑誌の読者投稿に書こうかなって思ってる。

日記

今年の7月に南アルプス山中5泊6日の縦走登山を行ったのですが、タンパク源が高野豆腐とカルパスと煮干しのみ。

「もう少しバリエーション増やしたいな……」

ということで、干し肉を作ることにしました。
とりあえず家にあった鶏むね肉と鶏もも肉を使用することにしたのです。

 

下ごしらえ

鶏むね肉1枚、鶏もも肉1枚を用意します。

豚肉や牛肉より安くって良いね。
鶏むねは100g60円ほど、鶏ももは100g100円ほど。

そのままでは内部まで乾燥しづらいので、軽くスライス。
腐敗防止と味付けを兼ねて、塩コショウを少し多めで混ぜます。

ひとまず冷蔵庫内で1時間ほど入れて馴染ませます。

 

実験的に、肉の半分は生から乾燥、もう半分は茹で干し(レンジ干し)としてみました。

レンジにかけると多くの油と水分が……
恐らく油分の多い鶏ももの分でしょうか。

余分な水気、油分は取り除いて(食事の出汁にして)、これもスライスと味付け。

 

下ごしらえ、完成です。

 

乾燥

夏の暑い日、昔から使っている干し網に広げて乾燥開始です。

半端な乾燥力では腐敗していますが、この時は直射日光があってかつ最高気温37度の日。
これなら腐る心配も少ないはず。

 

夕暮れ時、1日で大分乾燥しました。

特に、茹で干し(レンジ干し)の方は1日でも十分カラカラに乾いています。
対して、生の方は表面は乾いていますが内部はまだまだっぽい。
真夏の直射日光でも、最低2日は必要そうです。

 

次の日から天気が悪くなるようなので、ひとまず全て回収して冷凍庫に入れました。

そして天気が回復したので乾燥を再開させて…

正味2日でカラカラに乾きました。
持ってみた感触としても振ってみても本当にカラカラと音がするほどで、水分は全然感じられません。

 

出来について

油分の多い鶏もも肉は、生からの乾燥も茹でてからの乾燥も、妙な臭みがあります。
対して、鶏むね肉は臭みは感じられません。

そのまま齧ってみると、鶏むね肉は十分『干し肉』になっており、鶏もも肉は触ると油が付着はしますが口の中に入れるとそれなりの旨さです。
ただ、鶏もも肉からは生から調理したときのあの旨味があまり感じられません。
普通の料理だったら大抵鶏むね肉より鶏もも肉の方が美味しいですが、干し肉では鶏むね肉のほうが使いやすいし美味しいかも。

そのままジップロックに入れるとベタベタになるので、鶏ももはいっそのこと油で固める『ぺミカン』にしてしまったほうが良さそうですね。
これなら臭みが漏れる心配も少ないはずです。
鶏むねはビーフジャーキーのような感じで、保存性もあるしクセもありません。なので適当な袋に入れておいても大丈夫なはずです。

 

登山用に鶏肉で干し肉を作ったというブログ記事が無かったので、自分自身で書いてみました。
縦走登山では乾燥食品を持っていくのが基本と思いますが、干し肉を持っていくのは案外少ないのかな?

日記

3月後半から4月終わりにかけて、人生で初めて小説を書いてみました。
短編ですけどね。何と、原稿用紙換算で15枚(最大6,000文字)。

単行本1冊で10万文字とかになるんだから6000文字なんて少なすぎ、ちょっと長文のブログ記事1本分レベルであったりもする。
だけど今まで創作の執筆はしたことなかったので、時間は非常にかかりました。
仕事終わりに1,2時間かけて数百文字しか進まなかったりでしたし。

ジャンルは、ノンフィクション風…って感じ?
ちょっと自分でもよく分かりません。
郷土資料を読んでいると、本で調べても、現地踏査しても分からない部分があったので、いっそのこと創作して自分なりに補間しよう!ということで小説になりました。
ちゃんと資料だけで全て判明すればノンフィクションになるんですけどね。

雰囲気的には宮本常一先生の「土佐源氏」みたいな感じです。
現代人が古老から昔のことを聞くような文体で。
テーマは三重の意味を持たせたものですが、今から振り返るとこのテーマを6000文字で表現しきるのは無理があった気がする…
せめて50枚程度の短中編くらいにしたほうが良かったかな?
でもねえ、執筆初心者はやっぱり短編から始めないと。でもでも、15枚程度ならテーマは一つだけに絞るくらいじゃないと無理じゃね?

文字数を抑えてテーマを書くために、文体も設定も書きながら色々変えました。
もっと普通に井上靖や司馬遼太郎みたいに三人称風にしようかとしていたんだけどね、全部一人語りになっちゃったよ。

で、何で15枚程度の短編にしたかというと、近々締め切りのある投稿小説受付の規定がそうだったから。
短編で、締め切り近くて、ハードル低そうなものがそれだったから、それに合わせて書いたの!
小説の投稿とか新人賞って探せばいっぱいありますが、それぞれにテーマや規定があるのでまずは調べてから書いていく必要があります。
「小説家になろう」とかなら別に何もないんですが。
私が投稿予定の賞は最優秀賞をいただければ賞金出ますが、「なろう」とかは見返りがない(?)のでモチベーションが湧かず、あと、異世界ものじゃないし。
とは言え、小説初心者のクソ雑魚にはそんなこと期待する必要は微塵もないのですが!

最近、色々と本を読んだからか目が肥えてしまいましたが、間違いなく今は「眼高手低」ですから執筆を始めれば自分の無能さを再認識し、巷にある創作物への尊敬が復活する、ような気がする。
それに、小説を執筆したことで分かったことも多くありました。
プロットの組み立て方、ノートの書き方、日頃からメモをすること、資料を集めること記録をすること(集めた資料が無駄にならないように分かったことはwikipediaに記録したりもした)、頭の中では名作でも形にするとそれほどでもないこと。
ずっと疑問だったことを創作によって一本化すると、無意識レベルで「分かった」感じがして、「スッキリする」ってこと。「書かざるを得ない」と言っている小説家は、こういう書いてスッキリする『救い』のために、書いているのだろうか。

日記

などと、過去を思い返してみると判明してしまった。

こういうブログを書くのは15年も続けているんだけど、チャットはおろか2chレベルですらネット上の双方向性メディア上で発信・受信者にはなっていない。
Twitterのアカウントは持っているしほぼ毎日見てはいるけど、99%情報受信用で、他者との対話は無い。

ネットの中では発言はするさ。
でもそれは議題に対してコメントするだけで、そのコメントに対してコメントを受けてさらに対話を続けたいなんて気を、持ったことがないのだ。
「あっ、○○さん、いつもありがとうございます!そうですよね、○○だと~」なんてありきたりな対話も、ブログでやったことないような……

 

なんでこんなことまた考えたのかというと、また婚活をゆるりと再開しているわけなんです。
で、改めてコミュニケーションについて、自分のコミュニケーション歴とかやる気はあるのか?を考えてみているわけなんです。

最近の自分は、「人間の性格は無意識と称される思考回路によって規定される。とある行動を取ると快感を感じるか、不快を感じるか、そういうので性格と行動は決定される」
と思っているのです。
故に、やりたいことを制限されていなければ人は自ずと快感を感じることを実行に移している、と考えます。
そうすると、これだけ長くネットをやっていながら、制限もされてないのに、ネット上で他人とのコミュニケーションを図るということをしないため、自分はそれらに対して快感を感じない性格である可能性が高い。
だから何も努力せずに無意識に任せるだけでは、ネットだけで結婚相手を探すなんてことは私には非常に難しい気がします。

仕事では社用車に自分ともう一人の2人で乗る時は、それなりに会話しています。
でも3人くらいになるとかなり抑え気味になります。
3人になると黙るのは昔からありがち、あと「コミュ障」にもありがちw

 

 

それらから導き出される自分の戦略は……

 

何でしょうね?

日記

本日誕生日を迎えて、33歳になりました。

誰にも言ってないのでもちろん祝われません。
祝うようなものでもありません。

33歳、ゾロ目の年ですね。

前回のゾロ目の年、22歳の頃はどんなだったかな。
何となく大学院に進学しようとしていたけど、研究室の生活が好きになれなかったので進路に悩んでいた頃です。
とりあえず大学院には行ったけど研究へのやる気は出ず、公務員試験を受けたり歩き遍路を40日感かけて行ったりしてましたね。

そうそう、この年末年始、小豆島遍路に行く計画を立ててます。
150kmほど、約一週間の徒歩旅行。
歩き遍路を行って以来、徒歩旅行をするようになりました。
名古屋二十一大師巡礼、阿波西国三十三箇所巡礼などなど。
年末年始のような登山に行きにくい時期は、徒歩旅行に費やそうかななんて。

30歳になってから心身ともに老いを感じるようになりましたが、最近もやっぱり感じてます。
特に、腰が痛むようになりました……
やっぱり座り仕事はこうなりますね。
たまに体を動かすようなのが一番良いんだけど、わざわざ時間をとって筋トレするのもなあ……
その時間あったら読書とかしたい、ってこのこと何度日記に書いたことやら。

誕生日ということで毎年何かはやってるんですが、今回はケーキすら食べず。
でも一応近所の飲食店で生中と普通の食事をとりました。
いつも自炊だから、まあ良いよね。
誕生日なんだから我慢していたことをやればいい、と思うけれどやりたいと思いついたことは大抵すぐにやっているしなあ……
やってないのは、面倒臭さが勝るからであって。お金をいっぱい我慢しているわけじゃない。

せっかくだから最近考えていることも書きましょう。
私は慢性的な虚無感を抱いています。そしてこの虚無感をどうにかしたいな、って思ってます。
でもね、この虚無感もまた「感」の一つです。無意識の感情です。存在です。
虚無感を抱く、が故に何かをしようとする。虚無感を抱かねば何かをしようとしない。
ん?私にとって何かをする、というのは価値あるものと思っているのか、と気づく。
何かをしたい、何をすべきか、心の底から信じられる何かを見つけたい、それは今の年齢の半分の頃から思っています。
そんな絶対的な何かなんて無いんだけど、それを求める心こそが無意識的に湧き上がる何かの一種でもあるのか、というところまで至っているのです。

そんな33歳でした。

日記

数日前に祖母が亡くなりました。
享年94歳。
本日葬式でした。

この数年はまともに会話した記憶も無いほどの繋がりだったけど、もちろん直系の親族だから私の人生に関わっていた時もある。
私もこんな年(30代)だから人はいつか死ぬだなんて分かっていたし、そろそろ誰か亡くなるだろうと思っていた。
だけど近い親族が亡くなったのは生まれて初めてなので考えることもある。
平均寿命以上生きたんだから早すぎた別れ、ってわけでもないから悲しみや哀れさの気持ちは少ないんだけど。

ドラマなどで見るような感情がまだ湧いていなくて拍子抜け。
でもこのまま忘れてしまうのはやっぱり忍びないな。
そういうわけで、思い出せるだけ祖母に関する記憶を思い出してみよう。


祖母はかなり若い時に夫(祖父)を亡くし、女手一人で4人の子供を育て上げた。
農家をしていて、子供が小さい頃はどう頑張っていたかは不明だが、長男が大きくなって農家を継いでからは少し楽になったようだ。
以降、長男が父代わりになって下の兄弟の面倒を見ていたらしい。
祖母は再婚はせずにいた。

祖母の思い出は私が小学生低学年くらいの頃から少しずつ残っている。
もうその時には「おばあちゃん」という感じで、末っ子(母)の末っ子(私)の年の離れた孫だからというのもある。
子供らしい現世利益らしい思い出だが、少し遊びに行く程度の訪問で毎回千円くれていた記憶が強く残っている。
大抵は墓参りの時に祖母宅に行っていたから、線香の匂いと家の裏にある墓と農場の風景も頭に残る。

祖母宅はその時2世帯住宅で、祖母だけは離れで暮らしており仕事や食事では長男家族のいる新宅で行っていた。
離れと言っても、本当にすぐ近くなんだけど。
新宅は農家らしく非常に大きい。
広い作業場も併設しており、たまにアルバイトも雇っている。

私個人が親無しに祖母に関わったのは、高校2年生の頃にバイクの運転免許を取るために教習所に通っていた頃。
あの時は春休みで、アルバイトと教習所通いを同時並行で行っていたから少しだけ不規則な生活だった。
何分教習所の技能講習の予約で大きく左右されていたな。
そのような生活を送っていると実家で昼食を取れないときがどうしても出てくる。
だからそんなときには祖母宅に立ち寄って昼食を摂った。食事を作ってくれたのが、祖母だったわけだ。
今となってはどんなものを食べたのかは忘れてしまったが、まあ本当に日常的なメニューだったと思う。
煮物、卵焼き……そんなものだったかな?

大学生以降は年末年始だったり法事の時だったりに少し会う程度。
その時にはもう長男の息子の子供、つまりひ孫が出来ていたので、ひ孫に構うことが多かった。
私とは「最近どうしてるの?」みたいなよくある会話を少しだけするくらいだった。
結局、私と祖母との思い出はそのくらいだ。


祖母の子、つまり私の母世代の話を横で聞いていると、祖母の性格はたまに困るもののようだった。
烈火の如く怒るとか偏屈ババアとか、そういうタイプではなく、あまり人の話を聞かず主張したいことは主張するといったタイプらしい。
だから私の母も祖母のことを好きではない、と言っていた。

私自身は別に祖母が嫌いではないが、具体的な内容は忘れたが少し気遣いの無い発言をされたことは覚えている。
悪意みたいなものは感じなかったはずだから、それだけで嫌いになったことも無かった、はずだ。

年を取り、農業を手伝うことも少なくなってからはデイケアに通うようになった。
まあ家でいるよりかは良かったらしい。
その後は体を弱くもなり、病院への入退院を繰り返し、この度の入院中に肺を患って亡くなったらしい。


私自身は1年と数ヶ月前に実家と疎遠な関係となった。
きっかけは、まあそれも気遣いの無いことを言われたからだ。
母が祖母を嫌うように、私も同じような理由で嫌おう。
同じなんだよ。格好悪いのは、確かにそうだよ。

そういう訳で関係を断っていたので親戚との集まりは久しぶりなものとなった。
我々の世代はすっかり中年の域に足を踏み入れ、その子供の世代が大人の域に、親の世代が老人の域に足を踏み入れている。
姿かたちも変わったものだ。

昔からそうだったが、相も変わらずこういう場が楽しいとは思えない。
私の神経にはこういう場に対して快楽を感じる回路が無いんだなとつくづく感じる。
別にその場の個人個人が悪い訳では無いことは確かだが。
親戚と言えど所詮は血以外の共通点が無い他人だしな。

食事会では豪華な弁当が出たが、黙々と食べてその後はスマホで暇を潰していた。
どうせなら僧侶の法話でも聞ければと思っていたんだが、冬は死者が増えるのか分からないが忙しそうで、お話も少しだけだった。

親族を車で家に戻し、自分は実家で着替えて早々にアパートへ帰ることとした。
本格的な冬がやってきた2022年12月1日、身も心も冷やしながらバイクを走らせた。

日記

10月は東京行ったりしてイベントも無くは無かったのだが、何だか気分が乗らないというかゲームとかばっかりやってこともあったので日記は全く書かなかった。
Twitterもつぶやく頻度はかなり少なく、情報収集のためだけに使っていた。
何だか、発信欲や記録欲が減りつつある。

欲自体が少ないので日記を書かなかったりしても吐き出すことが無くてモヤモヤする、なんてことも起きず。
一人が板につきすぎた……?

昔はさあ、グーグル検索がまだ生きていて、流行り以外のものでも同士を見つけやすかった。
古い名作を改めて読んでその感想を検索すると、深みのあるものを見つけることが出来ていた。
それが今や、全く異なる作品や意図で検索を捻じ曲げられたり、当たり障りのないwikipedia以下のものしか書けてないものばかりが上位に来るようになっていると感じる。
大多数派の、最小公倍数の全く刺さらないものばかりになって、刺さるものが埋もれて見つけることが出来なくなったのなら、私も同士に対して発信しようと思わなくなるさ。

そうだ、昔はネット以外がメジャーで、ネットがサブカルチャーだった。
今はもうネットもメジャーだ。サブは追いやられた。
サイトごとに住民が異なるからサブの人々はほそぼそと生きてはいるが、同志同士で固まることはもう出来なくなったようにも思う。

また、研究したり学んだりして好きな人々に貢献したいよ。
昔の個人専門店が田舎に多くあったのはさあ、自分の興味や技能を活かして小さなコミュニティに貢献するためだったんじゃないか。
それが居場所の感覚にもなる。

今は自分一人という、コミュニティではない居場所に対して記述しているだけのようだ。
貢献の感覚や求められることがあれば、私だってもっと読んでいてタメになりそうなことを然るべき場所で書くよ。

心理,日記

バラエティ番組の中では「月曜から夜ふかし」が好きで、録画して見てるんだけどま~~~、多くの変人が出てきますわ。
何十年も続ける割には素晴らしい成果も出ておらず「個性的な人」として映されていたり。
だけどね、やっぱりそういうのも「継続」の一つなんですよね。

自分には伝記物に出てくるような、輝かしい物語として演出されるような、向上心のある継続なんて無いと思っている。
ゲーム、読書、ネット、マンガとかはダラダラと継続しているがそれは「継続は力なり」なんて強い言葉で表されるほどの意志も無いわけで。
ゆえに悲しいかな、それらの趣味が自分の無成長さを代表するようなものとして捉えてしまうこともあるのだ。
何やってるんだろう、俺、って。

でもさあ、人間ってそういう伝記みたいな生き方をするためだけに生まれてきたのかと。
恐らく今まで、平和な時代に英雄的な素質を持った人が生まれても、素朴に人生を終えていたこともあるだろう。
素質と環境と歴史の気まぐれが合うことで記録され、未来の一部の人間がたまたまそれを知るだけ。
生前に評価されず不遇の思いで死んだ人もいるだろう、「俺はよくやった」と思いながら死んでもすぐに忘れ去られた人もいるだろう。

ルーチンで今を生きている。
決まった時間に起きて、決まった物を食べ、決まった方法で身体を洗い、定期的に部屋を掃除し買い物をし、余暇は決まった方法で過ごす。
まるで修行僧のようかもしれない。修行僧もまた、人生を費やすほどの心の探究を行い、身体や環境としてはルーチンを守って暮らしていることだろう。
継続と言えば継続だ。継続とは自他共に素晴らしいものだと実感するとは限らない。
でもまあ、これに安楽を感じる気持ちも一部にはある。

日記

今使っているノートパソコンの液晶が壊れて緑色+残像が残るようになっている。
前々から「ゲーミングPCが欲しいなあ」と思っていたから、この際買うことにした。
探し始めて3日、遂に発注した。

職場から帰宅する度に様々な販売サイトや品を見て吟味して、絞り込んでいく。
チェックポイントは以下の通りだ。

  • GPX1650程度以上
  • メモリ16GB
  • windows11(に更新可能)
  • →windows11に更新可能かどうかは、主にCPUの世代が関与する。
  • →→そして世代によってソケットも異なることも多い。ソケットが異なるとマザーボードも替えないといけない。
  • なるべく小型
  • 10万円以内で安いもの

やはり小さいものが良いのでAmazonで売られているミニPCも良さそうだったんだけど、GPUが搭載されているものが少ないし高価。
CPUは最新のものが多いんだけれど。良いものも多いんだけれど。

ヤフオク・メルカリで探してみたら品数は多いが、CPUの世代が古いものが多い。
価格は非常に安く、3万円でも今使っているノートパソコンオンボード(intel HDグラフィックス4600)よりかは出来るゲームが多いと思う。
そんな中でひたすらCPUの世代を見まくって絞り込んでいく……

3つほどに絞り込んで詳細なスペックを比較すると、ほぼ同程度。
僅かな価格差で最終的には以下のものを選ぶ。

  • CPU:Core i5 9400F
  • GPU:GTX 1060 3GB
  • メモリ:16GB
  • サイズ:ミニタワー
  • 価格:5万円以下

今のノートパソコンはCore i5 4210M、メモリは8GB。
中古で2万+メモリ増設とSSD換装とかで10000円ほど使ったので3万円くらいか。
こんなんでも最低画質とかにすればSteamのゲームは動いていたから、スペック不足に悩みまくることってのはかなり少なくなる、はず……。
今のクソ雑魚ノーパソでもFF10 HD動いてたしね。(解像度低くしていたからHDの意味が無いレベルだが)

こんな歳になっても未だにゲームやってるのも不思議なもんだが、やっぱり面白いからしょうがないよね!

日記

ということを最近考えているんだけど、要は婚活である。

でもなあ……やる気ないんだよな。
見ず知らずの人に愛想良く?
見知っている人にすら愛想良くとか興味を持つとかが最も苦手な行為の私であるというのに!

じゃあ、このままの生活でいいのかと問われると、それもまた微妙だ。
今のような感じの生活が終生続くことになるだろう。
1人で旅行して、テレビ見て、食事して、読書したりゲームしたりして。
生活に変化がない。活気も欲しい、だから結婚に幾分かの期待はある。
そういう変化の機能が欲しいだけで、でも別に人間が欲しいわけじゃあないんだよなあ。

まあ婚活とかそういう活動を楽しいと思えるのがモチベーション維持に最も良いんだろうけど、楽しいと思える要素あるか?
女性の方々も長年の婚活に疲弊しているとか聞くが、楽しそうとはやはり思えないな。
皆が苦しむために活動している?苦しみからは避けたいと思うのが人間の常でもあろう。
思えばまともな就活もしなかった自分だ。歴史が私のそういう活動からの逃避を証明している。
だのに、こうやって一応仕事はしているってのは、他人と自分の差とは何だろうな。

で、どうするの。
マッチングアプリを少しやってみたけど、うん、弱者メンヘラ男性の僕には負けることが分かりきっている、と感じる。
もっと強引にくっつけるような圧力の働く場所が良いんだろうか?例えば結婚相談所とか?
そしてホームページを見てみる。ああ、皆、爽やかそうだねえ!
どういう人が集まるんだろうね。マッチングアプリより内向的な人?手助けが必要な人?

以上のようなことを趣味を堪能しながら考えている。
明らかに楽しみには邪魔な思考だ。
ザックリと切り捨てるか、やるかになるんじゃないか?
ウジウジと悩んでいるのは人生がもったいないじゃないか。
……ああ。