日記

仕事は相変わらず暇である。
もはや暇に慣れすぎて暇な仕事であるか否かの判断すら危うくなってきた。
暇な、はずだ。

パソコンに向かっているので適当にネットサーフィンで終業時間まで過ごすこともあるが、やはり生産的ではない。
色々と勉強していたが、今はとある分野の技術士と公務員試験の問題集を作成している。
過去問を取り寄せ、パソコン上に取り込んでデータベース化し、外部のフリーウェブアプリ的なもので別のサイトに公開したいと考えている。

過去問には正答番号が載っているだけで解説は無い。
なのでその公開問題集にも解説を加えるつもりだ。
だがもちろん解説を書くためには勉強せねばならない。
これがまあかなり疲れる。
完成には数ヶ月を要するだろう。
だが完成すれば日本で唯一の、その分野の解説付き問題集となるだろう。
自分の勉強にもなるし、広告でも入ればお金も儲かる?

人間は暇であれば何かしらを改善しようとするものか。
もしくは何もせずダラダラと過ごすだけだろうか。
それはまあ、性格の差だろう。
その性格を数値的に表せないかね?
…なんて疑問が思い浮かぶとグーグルスカラーで心理学の論文を漁っていて、問題集づくりも中断してしまうのであった。

日記

日常的に生きている。
同じような時間に起きて同じような日課をこなして生きている。

自分の心は変わった、と思うがどのように変わっただろうか。
10代は登山を初めとする余暇に多く頭を使っていた。
興味を持てるもの追うのなら、学問よりほかの趣味の方が興味が持てる、だから意義があまり感じられなくなった。
ただ周りに似た道は、未来に希望を持てなかった。
社会的な価値観に疑問を持つようになったのはこのへんか。

20代中盤、夢を果たすため努力した。
そしてかなった。
あの時は立てた目標のための勉強など、具体的な行動に頭を使っていた。
色々なものに対して「これは使えるか?」「これは美しいか」と対外的な興味が多かった。

数年後、だんだん切ないものや感慨に興味が惹かれた。
切ない音楽、過去への憧憬にふけられる町を歩くこと、過去の自分が成したこと。
心地よい孤独感があり、虚しい喪失感もあった。

そうして故郷に帰った。
だがやはり、捨てようと思ったから故郷は美しいのであって、戻ってくるとその感覚も薄れてしまう。
ゆえに、再発見によって客観性を持とうとしている。
空っぽの心で、ここが故郷ではなくて旅行に来たような、いや本当はここは沖縄なんじゃないかと浸って散歩をすると、やはりここは美しい場所である。

しかし、だからって10代や20代前半の頃のような熱気は無い。
その燃え上がる感情の無さに対して喪失感を持っているのが、現状だ。
このまま、熱意は無いままなのか、と。
だけどこうやって振り返ると、10年ほどの間でも感情は大きく揺り動いている。
良くも悪くも、人は変化せざるを得ない。
だからこの感情も変わるかもしれないし、喪失感そのものが無くなるかもしれない。
熱意が無いのは駄目なことだと早合点するのではなく、まずは認めてあげることだ。
そうして、移り変わることを楽しんでいければ、これこそ安楽じゃないか。

日記

アウトドア的なことが好きだと思っていたけど、もしかしたら新しい景色を見にいくような、旅の要素があるものが好きなんじゃないか。
発見が好きなんじゃないか、そう思っている。
手段としてキャンプとかがあったんであって。

というわけで外に出られる時は、小さくても良いから新たな発見が出来そうなものをやってみよう、と考えている。
だが今はコロナで県外には行きづらいし、行っても休業やイベントの中止ばかりだ。

そこで、徳島県内の徒歩旅をしてみようと考えている。
そして踏破が感じられるものが良いだろう。
ということで、四国のみちと阿波西国三十三観音霊場について情報収集している。

四国のみちは四国を一周するように自然探勝路を繋いでいくような道で、遍路道を被ることも多い。
こういう自然歩道は日本全国で整備されている。
だが昔作ったものだから、完璧に整備されているわけではないのが現状。
だが、徒歩旅を行いたいなら良いコースだろう。

阿波西国三十三観音霊場は徳島市以北の寺を巡るコースで、ウェブサイトとかは整備されている。
交通の便が良い地域だから途中で中断しながら、毎週歩くなんてこともしやすい。

徳島なんて見飽きたところだ。
だがこうやって徒歩旅をすれば客観的目線を持てて新しい発見があるかもしれない。
客のように徳島を見て、ここには何があるかを再確認したい。

日記

8/31からこの日記書いている9/2にかけて、急に首や肩が痛くなった。
ただの寝違えとかだと思っていたが、発生日の次の日も2日後も痛い。
痛くって真横を向くことも辛い。
常に痛いから集中もできないし、色々と億劫になる。
バイクの安全確認もしづらいから通勤も辛い。
幸い、仕事は楽だが。

姿勢が悪いのか、最近ストレッチとか一切してないから、体が凝り固まっているのか?
と思って、朝活にラジオ体操第2を加えることにした。
ラジオ体操第1でもデスクワーカーにとってはかなりのストレッチとなるが、第2までやるとかなり健康的になるのではないか。
第2は第1よりも運動強度が高いらしい。
そういうわけで今の朝のルーチンワークは、

  1. 昼食(ホットサンド)を作る。
  2. 作っている間に洗い物を済ませる。
  3. 朝食(トースト)をホットサンドメーカーで作る。
  4. 朝食を摂る。(トーストとインスタントコーヒー)
  5. ポイントサイト巡回とメールチェック。
  6. ひげ剃り、洗顔、トイレを済ませる。
  7. ラジオ体操第1、第2(約10分)
  8. 着替え。
  9. 出発時間(7時50分)まで瞑想(約20分)
  10. 出発

とまあ盛り沢山だ。

さて、この痛みだがストレッチによって…治ってはいない。
だが姿勢を色々変えて分かったのは、肩を意識的に上げておくと常時の痛みは緩和されるようだ。
うつ伏せで肘ついて読書する、ような姿勢ではかなり楽。
最初は首が痛いと思っていたが、もしかしたら肩なのではないか。
両肩同時だから脱臼とかではない気がする。
なんなんすかね?

日記,旅行

晴れの休日、試験も終わったので久しぶりにキャンプしてみることにした。

蔓延防止とか色々出ているので徳島県外には行かず、県内で済ませることに。
最高気温が35度超えの猛暑日なので、標高の高いところが良いだろう、ということで標高1000m近くの神山と木沢の峠近くにある「岳人の森」へ。

…の前に時間があるので、手前の「神通の滝」へ寄ってみた。
林道を少し走って遊歩道を登っていくと、滝が現れる。
猛暑日だが樹冠の下の水気の多い環境は非常に涼しく、夏涼みには滝巡りはもってこいである。
滝巡りは良い…リリンの宝だよ。

神通の滝は勢いがあるのか霧状になる率が高いように見えて、滝壺付近は非常に潤いがある。
暑さは全く無くてずっといれば肌寒いほどだ。
心地よい。

そうして岳人の森キャンプ場の管理棟兼食堂の「観月茶屋」へ。
ここで冷やしそばを食べ、受付を済ませる。
14時までのチェックインならアーリーチェックインとなり、500円追加。
薪は種類があり、綺麗なものなら500円とかするが雑薪なら200円。
雑薪は、ただの枯れ枝のようなもので、鉈や斧は必須。
自分はこれを選んだ。

当日受付としたがコロナ禍の休日だけあって、ほぼ満員らしかった。
しかしバイクキャンプ用のサイトがあるようなのでそこに行くことに。
(空いてなかったら林道脇の渓流で野宿するつもりだった)

サイトに行ってみると、確かに狭い。
ソロテントとタープとバイクを置いたら埋まるほどだ。
自分はタープ無し派なので、特に広いスペースを必要としないが。

ヘリノックスの偽物チェアとテーブル、焚き火台を組み立て。
軍手と鉈を装備し、雑薪を取りに行く。
枯れた雑木を引っ張り出して、サイトで枝払いして薪を作っていく。
薪というより焚付だが。
(管理人としては片付けを客がやってくれるから一石二鳥?)

サイトからは木々の間から徳島の平野が垣間見える。
大鳴門橋までハッキリと見えた。
良い天気だ。素晴らしい。

私のソロキャンでは特にやることは無い。
とりあえず読書と昼寝をしていた。
そうこうしているうちに昼の3時ころとなり、チェックインを済ませた人たちが増えてにぎやかになってきた。

五月蝿いわけではないが人の声があると読書や瞑想に集中しにくいので、焚き火を始めることに。

焚付ばかりだが、こうやって燃やしていると下の方に炭化したものが増えて火が安定してくる。
乾燥した割薪が無い場合、とにかく燃やすのがコツなのだ。
無駄な消費だと思わずに。

火が安定してきたので、少し早いが飯を作ることに。
今日の晩御飯はピラフだ。
カットした野菜と米は自宅で既に飯盒に入れておいたので、水と調味料を入れて火にかけるだ。
調味料は固形コンソメと塩だけ。
飯盒を吊るすものを整備するのが面倒なので、焚き火台の中央に放り込んで炊飯。

あとは火の番をしながら待つだけ。
缶ビールと焼きマシュマロで暇を潰す。

そうして出来上がったのが焦げ焦げのピラフなのだ!

…焚き火台に放り込む方法は吊るす方法に比べて取り出しにくいので、炊飯具合のチェックを怠りがちですか?
食べてみると焦げの味もあるがまあまあいける。
でもやっぱり自宅で作ったり店で食べたほうが美味しいのは確かだが。

暗くなった後もひたすら焚き火。
やることは無い。
だから考え事をしていた。

私は学生の頃からキャンプをしていた。
だから好きだろうと思っていた。
だが、今は、それほどでもない、気がする。
旅費を抑えるための手段としてキャンプは素晴らしく、苦痛であっては元も子もないのでなるたけ快適にしようとしていた。
だけどキャンプ単体が好きかって言うと、微妙だ。
キャンプの醍醐味に火を見つめるとか野外で料理して食べること、とか挙げられるが、新鮮味を無くした今となってはそれ以外の快が見当たらない。
やったことがないことをやるのは良いが、ずっとそれだけやっていたいわけでもない。
大自然を味わいたいなら登山でもいいし、静かな環境で読書や瞑想したいなら近所の公園でも出来るわけで。

ソロキャンプの楽しさとは、今は分からない。

 

でも岳人の森そのものは良かったです。
自宅よりも温度調整が上手く出来ているシャワールームもあるし、水洗便所も整備されている。
順路が整備された植物園も良く出来ているし美しい。
これらを創業者がほとんど一人で整備したってのがすごい。
ホームページも作っているし、登山道だって作っている。
私なんかより遥かに心的エネルギーが高いのだろうな。

次の日、朝5時に自然に目を覚まし、夜明けを見に行く。

キャンプ場から東は山にあるので綺麗に日の出は見れないが、朝焼けは見られる。
夜明けや夕暮れは美しいものだが、毎日起こっていることなんだよな。
そういうのをじっくり見る機会が自然に出来るってのが、キャンプの醍醐味だろうか。

日記

インターネットが普及してから、人の弱みを赤裸々に話したり聞いたりする機会が増えた。
匿名という、弱みにつけこまれにくい環境が手助けしたのだろうか。
正直な気持ちで発表できるってのは私としては素晴らしいものだと思う。

社会の中で表面的に他人と付き合うだけでは、他人の行動を見られるだけでその本心はほとんど計り知れない。
だから、思いの外多くの人が悩んでいるということにネットを始めてわかることがある。
発達障害とかHSPとか、文明開化直後の精神病に当てはまらないようなものに名前が付いた。
生きづらさを伝え、より良い生き方をしようと模索している人は多い。

さて、他人も案外苦しんでいるんだなということが分かって本題です。
人間は今も昔も悩んでいる。では、昔の人は悩んだ時どうしていたのか?
昔のほうが行動範囲を制限されて息詰まりを感じる人はいたであろう。
そんな時、手助けとなっていたのが、宗教なんじゃないだろうか、と思うのです。

古代から近代までの代表的な日本の精神療養所が、もしかしてお寺だったんじゃないだろうか、という仮説を持っている。
悩み、「俗世なんてもう嫌だ!」と思って、出家する。
しかし思えば、仏教では結婚しないのが基本。
だからそういう軟弱?な心の持ち主は遺伝子的にどんどん減っていくはず、なのだが仏教は今でも続いているわけで。
今は親の寺を継いだ、いわゆる「出家出身」というちょっとわけわからん人も多いが、まあ文化的側面での仏教ではそれも正しい。
問題は、在家出身の僧侶だけで近現代まで残っていたということだ。

この辺の問題は考えすぎるといくらでも考えてしまうので、今日はここまで。
いつかまとめたいもので。

日記

4,5月頃の鬱状態から、メンタルヘルスに関することを自分なりに調べている。

以前から仏教には興味があったし高校生の頃に概要も調べたことがあるが、最近は再度調べ直している。
今はもっぱら、メンタルヘルスとしての仏教の効用、そして歴史や民俗学的に民衆へ与えた精神衛生的な効果などに興味がある。
瞑想も一応続けているし、ブッダの教えを実践するための手法の一つであるとも実感できている。

また、仏教だけでなくフロイトやユングなどの西洋の分析心理学、哲学の概要も本を買って調べている。
それらの共通点や違いや、一方で得たことを一方に活かしてみることなどやってみたい。

今日も雨の中、ブックオフで色々と仕入れる事ができた。
頑張っても月10冊ほどしか読めないが、8月だけで30冊近くも仕入れてしまった。
図書館でもちょくちょく本を借りているから、またしばらく読めない積読本が増えたことになる。

しかしこうやって調べていると、「僕はまだ知らないことばかりだ。死ぬにはもう少し待って欲しい」と思えてくる。
30歳になったころはもう人生に熱意が無くて、飽きて、あとは消化試合だけだと思っていたが。

集中して調べたり、自分を感じたり出来ているのは、やはり一人暮らしで幾分か孤独であるからだ。
他者に対して慈悲を持つ、と言えど安らかな心は一人でいるときのほうが多い。
俗世は早く過ぎ、「反応」しないとついていけない。
だから、そのような反応に疲れて悩み苦しむ。
意識的にかつ日常的に、孤独は必要であると感じる。

日記

お盆休みはずっと雨で、ひたすら読書をしていた。
この長い休みにやってやるぞと思っていたことは無く、予想通りと言えばその通りだ。

雨はこれからも続いていく。
気温も35度を超えるようなことはなく、クーラー無しで生活できるだろう。
このまま、猛暑も消え去るか。
そして夏も過ぎて、秋が来るのか。

コロナや天気で長期旅行に行けなかったが、悔しいという思いは無い。
ただ淡々と過ごしている。
休みでウキウキもせず、仕事が再開されてウンザリすることも喜んでもなく。
感情はかなり薄まっている。
感情の渦に落とされることは無いが、歓喜のような感情も無い。
だが今の環境が不幸だとは思わない。
今を与えてくれた職場には感謝している。(正確に言えば、感謝というより不満はゼロの状態)

外を見て喜ぶことよりも、今は内側を見てさらなる探求をしてみたいとは思っている。

日記,心理

12日から16日までは夏休み。
天気でも良ければキャンプしに行こうかと思っていたが、生憎の全日雨。
しょうがないので読書三昧と致す。
土砂降りの中カッパを着てバイクに乗り、ブックオフへ。
2店周って10000円分購入。
色々な漫画の続きもいっぺんに買って、完結させたものも多く。
本が切れそうだったからこれでしばらくは持つ。
起床、朝食、読書、昼食、読書、夕食、風呂、テレビ、読書、就寝…の繰り返し。
夏休みだがしてみたいこととか目標は無く、連休の意味は特に無い。


さて話は変わって、フローのこと。
心理学的にはフローという集中状態こそが最も今に着目し、将来への漠然とした不安だとか自信の無さとかを無くしてくれる。幸福に近くなる。

何となくやる気が出ない、野望が無い、とブログ開始当初から思っていたが、言い換えればフローに至ることが少なくなったからだと思う。
だが20代の頃を思い返せば、あれがフローならばあの頃は酩酊状態でもあったように思う。
信念に酔っていた。宗教に酔っていた、ようなものだ。

冷めた視線は客観性を備え、酩酊や洗脳から逃れられる。
だけどそういう酩酊状態はフローでもある。幸福でもあるのだ。
受け入れたくないことは受け入れず、受け入れたいもののみ受け入れて突き進む。
他人から見れば少しスピリチュアル的な違和感も感じるだろう。

瞑想やマインドフルネスは今この瞬間に集中する、フロー状態になって苦しみから解脱させる。
ではその状態は酒を飲んで酩酊状態になって嫌なことを忘れ、目の前の美味しいつまみを食べて幸せを感じる、のとは違うだろうか。いや、もしかして同じなのでは?
フローにも種類がある?
無行動なフロー、行動するフロー?

日記

しばらく日記が空いた。

祖父のアパート掃除で出てきたダイヤを売った。
売り先によって数万円の違いがすぐに出るだろうから色々と方法や評価について勉強していた。

いろいろな宝石店を回って査定してもらうのは面倒なので、相見積もりしてくれるサイトに依頼してみた。
すると、訪問査定の選択肢しかなかった。
とりあえず1社目査定してもらう。
その人は神奈川から飛行機でやってきて、レンタカーで四国を回っているようだった。
買い取れるかどうかもわからないのにそれほど経費をかけるのか。
結構経費の割合が多いだろう、あまり高値は期待できない。
その人は頑張っているのかもしれないけど。

結局、面倒くさかったから一社目の人にダイヤのネックレスをいくつか売った。
査定額は2つで2万円。金のネックレスは1万5千円。
鑑定書のないダイヤは安いものか。
ダイヤのリングは5000円と言われたので保留にした。
まあこれで営業マンも最低限のノルマは達成できたんじゃないか、と少し同情もするから訪問査定はあまり割に合わない気もする。

試しにメルカリでダイヤのリングを出品してみると、鑑定書もないのに一瞬で2万円で売れた。
一瞬だったってことはもう少し高値でも良かったのか…
でも鑑定書付きのリングだなんて他にも出品されているのに。
まあしょうがないか。
これにて面倒な出品物は終わり。
ようやく目処がついた。


話は変わって最近考えていたこと。

瞑想とはメタ認知である。
高位の自分が自分を観察する。

心理学的にメタ認知は良いものだとされる。
自己を客観視するということ、思い返せばそれって終わりが分かっている時期に自然と出来ていたことなのではないか。
例えば、学生時代、期限付き契約社員、繋ぎでやっていたアルバイト。
「僕は今高校生だ。だから高校生らしいことをしよう。悔いのないようにしよう」とか、思っていただろう。
そういう自然と出来ていたメタ認知が心理学的にも良いことで、だから美しき思い出として残っているのでは。

「これからずっと…」と考えるとメタ認知はしにくくなる。
いつまで経っても今からの連続で、未来や現在は主観的すぎるものになる。
そのような主観が今の自分の位置付けを忘れさせ、価値も見出しにくくなる、のではないか。

まあこれは性格の違いも関係している。
日本人に多い、エゴグラムで言うところのAC優位は他者の目を気にして不安定な状況には過度の不安を感じる。
だからこういう人らにとっては「これからずっと」はむしろ安心感をもたらすのかもしれない。
だが自分は嫌だ。
メタ認知から遠ざけ、今の一瞬の価値を薄れさせる。

全ては変わっていく。
だから今は価値がある。
そんなことは頭では分かっている。だが実感しやすい状況というのは限られている。