心理,日記

https://life.yurecord.com/2022/02/05/post-1635/

移動中、ふと以前理解した「受動と能動は一緒」だということを思い出していた。
今、目に見える風景、行動、やろうとしていること、無意義に生きていること。
自分にはもう生きる熱は無い、死んでいる。と思っている。

だけどこのような「熱の無さもあることも一緒である」、というのがふと心に落ちてきた。
つまり私は死んでいると考えるのと同時に生きてもいるのだ。
本当に自分は死んだものと思っていたから、まさに天啓のようなものだった。
私は、生きている、らしい。

やる気があるように思うこともあればないように思うこともあるだろう。
それらをひっくるめて「生きている」らしい。
笑いも苦しみも、希望も絶望も、等しく「生きている」
行動するもしないも、野望を持つも持たないも。
それらの区別は広大な無意識の中にぽつんと浮かぶ(有)意識が行っている。
無意識が私に垣間見せた「生きている」とは、空恐ろしくもなるくらい薄暗い広大な空間の風のようなものだ。

日記

晴れの休日、バイクで買い物に行き帰ってくる途中、ギアチェンジが出来なくなった。
完全に出来なくなる前にはDCTによるギアチェンジ時、通常は「カコン」だが「カリ、カコン」と滑っている感じがあった。
もしかしてギアが摩耗してきているのか?と思っていた。

そしてその数十分後、路上でギアが入らなくなる。
ギアのインジケーターは「-」だったがニュートラルのようで、押すことに抵抗は無いしエンジンも空ぶかしは出来た。

バイクを押して歩道に逃れ、更に症状を調べてみる。
NC750DCTは通常、ギアがニュートラル以外で電源を切ると、次に電源入れたときはギアが勝手に動いてニュートラルにする。
今回そのような電源入れ直しをしてみたところ、チェンジが滑っているのかずっと「カシュカシュカシュカシュ……」とギアを替えようとする音が聞こえた。

もうどうしようもないと思ったので、保険に付帯のロードサービスを使った。
自分の任意保険についてはあまり詳しく知らなかったが、このときようやくロードサービスと帰宅補助と代車補助について知った。
ロードサービスを呼んでいる最中に送り先のバイク屋をスマホで調べる。
近くのバイク屋には「DCTはホンダのコンピューター必要だからホンダドリームに頼んだほうが良い」と言われたので、アパートから少し遠いホンダドリームに送ることにした。
ホンダドリームに連絡し、受け取ってくれることになった。
少し難しい症状でありかつ予約が詰まっているので、3月中に治らない可能性が高いとのこと。
そこで保険屋に連絡し、代車を手配してもらうことにした。
4月から別の職場でどこに異動になるかわからないので、移動手段は欲しい。
代車は3月14日に自宅へ送ってくれることになった。
故障場所からはバスで帰宅。

走行距離60,000km超えだからそろそろ大きなトラブルあるかもしれない、と思っていた矢先のトラブルだ。
DCTは楽だがまさかこのような故障があるとは。
そろそろ乗り換えどきかとも考えられるが、まだまだ飽きさせてくれないとも考えられる。

月曜日はバスで通勤し、火曜日からは代車で通勤することになる。
そのための時刻表調べや駐車場所の調査などもあり、色々やって疲れた。
疲れたのだが、なんだか生きている感じがした。

日記

般若湯(ブランデー)を飲み、暖かな最高の空気の中、この日記を書いている。

来月から別の仕事に移る。
心理や生活様式も変わるだろう。
これから先、私は何をしていくべきだろうか。

まず、親が嫌いなのはこれからも続けていく。
心が落ち着き、振り返れば想いも変わるだろうと思っていたが、やはり今でも許すことは出来ない。
死ぬまで許せないくらいだ。これはアイドル業界でもある愛から憎しみへと変わる「反転現象」なのかもしれないが。
困った時に更に追い打ちをかけるような人間と付き合う理由は無い。

プライベートでは、やはり今後も心理についての学習を続けていきたい。
私は人の心など分からない。ゆえに興味深いものでもある。
今の職場でも無能な働き者のような存在がいるが、このような存在にはどのように対処するべきかということなども学んでいきたいものだ。
自分を含む人の心を知り、自在に操作できれば、全ての人間が幸福になることが出来る、のではないか。

32歳の男、世間的には結婚するべきなのだろうが、1年ほど前にはあった結婚願望は今はほぼ無い。
もう独身でも良いし、私という人間・性格の行く末でもあるのではないかとも思う。
結婚すれば、今の私も消え去る。
静かな場所で静かに深く考えることなんてほとんど出来なくなるだろう。

今は、知りたいことがいくらかある。
それを追求しておきたい。
心理学、民俗学、宗教など。理系科目は仕事として学んでいくことになるだろう。
仕事を失ったとき自分は何をしたいか、想像できない。
自己肯定感が更に下がり、自分の命に引導を渡す可能性もあるだろう。
虚無感は3年前からずっとあり、心が燃えるようなことも無い。
今はただ、静かにゆっくりと心と身体を置いてみようと思う。

心理,日記

今の仕事も今月で終わる。
ありがたいことに有給も付与してくれたのだが、なんと1月に付与されるから1~3月の間に5日消化しないといけない。
6~12月の間にも5日休んだから、怠け者の自分ですら「こんなに休んでいいの……」と思ってしまう。
組織としては規定だからしょうがないらしいのだけど。
というわけで、最終勤務日は再来週くらいになりそうだ。

12月に異動してからは少し忙しくなったし少しモヤッとすることもあったが、まあ全体的には性に合っているほうなのかもしれない。
1年前と今の自分の気持ちや感受性が大きく変わったからってのもあるんだろうけどさ。
自ずとやれること、他人なら疲れることだが自分ならほとんど疲れないってことは、天性である。
データ処理とかは自分はやはり上手いほうなのかもしれない、と働いていて思う。

今の仕事の処理方法は次の仕事にも共通点はあるだろう。
事務処理だけでは終わらないかもしれない次の仕事のほうがやりがいはあるかもしれない。
でも、今の自分はそういうやりがいがあろうがなかろうがあまり関係ない、という価値観になってきている。
自分は内向的だ。
私の真実は私の中にあり、それはどこに行っても同じではなかろうか。

色々な本を読んで世界や自分への見方も整理出来た。
過去に自分が燃え尽き症候群になったのも、少しずつ悟ってきている。
様々なものに惹かれて燃えて、燃え尽きた後に残ったものにこそ注目しよう。
失ってゆくことを覚るのは怖い。でも、奥底にあるものを正しく見るには、失うことだって必要だし価値のある体験なんだと考えることも出来る。
私は死にながら生きていくしかない。

日記

とあるゲームを終わらせるために一気にプレイしていたら、余暇にそれに対する時間を使いまくって日記すら書いてないからまた日付がとんだ。
2週間ぶりの日記に意味なんて……!?
仕事は繁忙期になっており、少し忙しいというのも理由だったけれど。

そうそう、仕事中に掲示物の張替え作業を行っていたんだけど、何か腰をかがめると妙に痛い。
仕方なしに膝の屈伸で物を取ったりしてたんだけど、痛さがだんだんと大きくなってくる。
掲示作業が終わって椅子に座っても少し痛く、前かがみになれないので妙に姿勢良くしてデスクワークした。
休憩のため席を立つと、なにかを手で掴まないと立てないほど痛い。

帰宅のためにバイクに乗るのも一苦労で、特に腰をねじる動作に痛みを感じるので、車線変更時の目視確認などが痛くてしづらい。
なのであまり速度も控えめにして、安全運転で帰る。
そして帰宅後も痛みはずっと続いており、この辺でようやく「これ、ぎっくり腰なのでは?」と思い至るようになる。
小さな腰痛は今までにもたま~にあったが、単に筋肉がつっていたり凝り固まっているようなものですぐに治るものばかりだった。

その後痛みはずっと続き、2日後の朝の今でも痛い。
寝るときなんて寝返り打てない。
両手で体全体を操作し、腰がひねらないように、身体を横にする。
寝返り打つだけで覚醒してしまうので、寝不足にもなる。

そんなわけで人生初のぎっくり腰は、32歳の3月ということになった。
腰は20代でやる人もいるから、まああり得ることなんだろう。
今まで腰痛者(安部菜々ちゃんとか)を笑っていたが、笑い事じゃねえ!
これが続けば運動そのものが嫌になって人生も楽しくなくなる。
やはり人生を楽しむには、健康こそが第一である。

日記

相も変わらず読書は続けている。
変わらぬ毎日だが、ゆっくりと変わっていたり考えが進んでいる感じはある。
1年前と今の自分は、明確に変わったと言える。
もちろん、それが良いとは限らないのだが。

近所の図書館の本も興味深いものはかなり読んでしまったような気がする。
そこそこ興味のあるレベルならまだまだ時間はかかるが。

最近は民俗学はもちろんだが仏教も学んでいる。
この2つを同時進行で学んでいるとある疑問が生じる。
「今は世襲の僧が多く、昔はそうではない。昔はなぜ僧になったのか、どのような心理状態で僧になるのか。辺鄙な場所にもなぜ寺はあるのか。民衆はそのような寺とどのように関わっていたのか」

これらの疑問は恐らく仏教民俗学という範疇になるだろうが、それに関する良書がまだ見つかっていない。
もっと綺麗事を抜かした生々しい記録が読みたい。それも、心理の方面で。

心理,日記

今日は阿波西国三十三観音霊場の徒歩巡礼をしていて、遂に終えた。
結願してめっちゃ達成感得られた~ってわけではなかったけどね?
でも達成感がそこまでではあっても満足感は無いかというと、そうじゃない。
やってよかったな、と思う。

最後の札所へ歩いている途中、不思議なことを考えた。

もしかして、受動的に生きることと能動的に生きることってあまり区別つかないんじゃないだろうか?

私は今、歩いている。
私は誰からも指示されず目標を設定し、それを達成しようとしている。
能動的だ、と言えるだろう。

しかし今、歩いている私はただ足を動かして目の前の風景をボケーっと見て「あっ、○○があるー」と素直に受け取っている。
ただ足を動かすだけで何かしらの刺激を得て、満足している。
これはテレビを見るだけで満足しているのとそう変わらないのではないか?

私が受動的に見ようとしているものは、実は能動的に見ている。
私が能動的に見ようとしているものは、実は受動的に見ている。

私が能動的に人生を変えようとしているのは、環境や脳の機能や記憶等の縁起によってであり、それらからの受動の結果である。
私の人生が受動的に変わろうとしているのは、環境等からの影響を撥ねつけないという能動の結果である。

私は能動と受動を両立するし、どちらも無い。
あるがまま、に?

日記

このブログは日記なのだが、だらだらと日を空けてしまった。

1月上旬はFF10をやり込んでいて、そのままの流れで10-2をプレイしている。
しかし……子供の頃はゲーム性がそこそこ好きで何気なくプレイしていたが、今になってプレイすると、正直少し苦痛だ。
ストーリーは深みや神性が無いし、ゲーム性もまれに面白いものがあるだけでだいたいは面倒なだけだ。
何だか、徒労感が大きいというか。

そうなんだよな。
大人になってやるゲームって、徒労感を感じてしまうんだよ。
膨大な時間をかけても得られるものは少ないし、プレイしているときは常に楽しいわけじゃない。
イラつくこともある。
仕事で疲れて帰ってきてやることか?と疑問に思うのもまあ分かる。

読書は読書で得られるものは多いが、ダラダラと楽しめるわけではなくて少し疲れる。
ダラダラとしたいならYoutubeが良いか。
Youtubeの中にもテレビの中みたいな芸能人的なキャラがいる。
彼ら彼女らもいつかはいなくなる。
だが、いつかいなくなるものなら全て価値が無いのなら、私の存在はまったくもって無価値である。
だからまあ、どうせ無価値なら今を無責任に楽しんでおけば良い。

日記

2022年、明けましておめでとうございます。
2022年だなんて、子供の頃は予想もできない未来の数値だったけど、遂にここまで来たかとも思う。

年末年始はレンタカーを借りて九州に行っていた。
トラブルは無く、大した計画は立ててなかったけど計画通りにいったと自負している。
三が日は日本晴れで、山の上は寒かったけどその分空気が澄んでいて、最高の景色を楽しめた。
九州は山も温泉も楽しい、良いところだった。

運転中や登山中は孤独だからしっかりと物思いに耽っていた。
大学生の頃からやっていることだが、恐らくその時からずっと、この時間が自分と向き合う時間、瞑想のようなものだったんだろうか。
内向的な人間はこういう状況でも自分1人で楽しめるってのが、良いじゃないか?

美しい風景を見て、心地よい音楽を聞いている時、その一瞬、何も言葉を考えず快感に身を任せられる時がある。
それが意識の感覚の一つだ。
その感覚をもう少し追い求めてみないか。
まだまだ人生には探求の余地がある。
漱石の小説の「行人」のように、私も真理への近づけなさに苦しむ時がある。
だが、2022年は「気を楽に」して一歩一歩ゆっくりと探求してみたいと思う。
結局、最後に行き着くのではなく歩いている瞬間が、真理になるのかもしれない。

心理,日記

仕事は、11月末で異動があって環境が変わっており、少し忙しくなった。
のは良いのだが、人間関係で「ん?」と思うことはある。
以前の職場は事務系の中年の男ばっかりだったけど、優しい人ばかりで居心地は非常に良かった。
男なのに上下関係を厳しくしない人って、もしかしたら一番良いタイプなのかも。

とは言え、今の職場も別に上下関係が厳しいわけではない。
しかし女性が多いからか、何となくやっぱり事務系の男性とはなんか違う思考回路をしており、それがたまに疲れる。
悪い意味でいい加減、悪い意味で細かいというか、注力するべきところが男と女で違う気がするのだ。

さて今日、本当にしょうもないことだとは思うけど、久しぶりに命令に抗うか、不満を抑えて命令を聞くかの判断に迷うことがあった。
小さなしょうもない書類を集めるのだが、本当にいつでも出来ることなんだから次の機会に一気に集めようと思っていたのだが、ヒステリックに「指示通りに集めろ!」という指示が飛んできた。
その書類を集める理由や時期を、自習した自分よりもよく分かってもいない。
「これって、こうですよね?」と聞いても「えっ?そうなの?」とよく分かっていないし、指示を修正もしない。
今の状況・時期で集めるだなんて効率が悪い、1,2ヶ月先のことすら効率化させようとしないのか、とも考える。
だからそういうことを全て言おう、と思ったのだが同時に、自分は勤務1ヶ月の人間であるとも考える。
結局、不満を持ちながら指示を得て、やる気なく集める作業に出た。
そうして今、その不満をここで打ち明けているのだ。

しかし怒りの感情をこちらも少し顕にしながら少ない反論をした時、同時に「あっ、今の自分にコダワリってあるんだ」と感慨を覚えた。
うつ病、統合失調症陰性症状患者のように、「拘りも生きる気力も何もないんだ」と日頃素気なく生きているわけだが、その拘りを感じることでかつてのエネルギーの源泉を感じもした。
そう言えば、1人で山に登りだしたのも、「あいつらとつるまなくたって、1人で山に登れるんだ!」という反骨心もあった。
そうか、僕には反骨心があった。
それを過ちだとは思わないで。過ぎ去りし日の自分はそれを運動する糧にしていたことが、確かにあったんだ。