日記

というわけでずっと某ゲームの実績制覇の目処が立ったのでやっていたんだけど、そういう時は時間がどんどん過ぎていく。
結局まだもう少しかかりそうなんだけど、でも数ヶ月ボチボチやっていたのが遂に終わりそうな。

人間の生き方において、何だかんだ幸せなのは、こういう時間を忘れて集中している、つまりフロー状態だったりするようで。
グルグルと考えるのではなくて何かしらの目的に向かって行動している最中。
でもそのフロー状態と幸福について、哲学者は考えたことあるのだろうか。
西洋哲学にはありそうだ、では東洋哲学はどうだろう?

日記を書いていたら自分をメタ認知出来るし記録も出来る。
でもそういうメタ認知は太宰治の「トカトントン」のように、嫌な時も良いときも全て「どうでもいい」と思わせる効果もいくらかあるわけで。
だからまあ、いい意味で集中している時は、無理に日記を書かなくても良いのかなあ、とも思うわけで。

日記

俺は自由に生きるのだ

と26歳頃から雇われ労働は半年ほどで計画的に変えていた。
その半年の間の中で不満を感じることはもちろんあるが、良いところも発見していた。
どんな労働でも嫌なところを見つけて自室で悶々とするだなんて、ごく普通だしむしろ絶対あるものだと思っていた。

だが今の職場にはそういうのが無い。
すんなりと仕事を終えて100%定時で終わっていて、(自分はしたことないが)遅刻してもペナルティは全くなく。
「やってやるぜ~」と燃え上がる気持ちになることも無いが、平穏平凡に半年近く働いていることとなっている。

就業前は精神的に病んでいたし今でも健全とは言えぬが、この環境のおかげで助かった面は多い。
面接をしていた人たち、上司は薄々感じていたのだろうか、特に感じずルーチン的に接してくれたか。
どちらにせよありがたい距離感ではあったと思う。
別れの挨拶ではそういうことを言うのは、ちょっと突拍子がなさすぎることになるだろうから言わないが、何にせよ、感謝していることは伝えたい。

日記

有給休暇を取らせてもらって連休とし、3泊4日の旅行に行っていた。
旅行前の準備も慌ただしく行ったので、日記の日付がまた飛んだ。
いつものごとく1人で、レンタカーで行ってみた。
2021年11月からETC休日割引が復活し、節約できた。

車中泊2回、山中1回、どれも読書以外やることないので孤独な時間を送っていた。
寝袋に入って寝ようとすると、色々と考えてしまう。
寒々しい、孤独だが、人の温かみを知れる人間ではない、だから満たされることも無いのでは、とか。

そんな時は禅宗の勉強をしていたときに知った「脚下照顧」という言葉を思い返す。
先々のことを考え、完璧な人生を歩もうとすると破綻が来るのは必定だ。
今できることを、小さなことを一つ一つやっていくのだ。

グルグルと考えている時に、ふとプレイしているゲームの攻略方法を考える。
どのような準備をして、どのような戦術を取っていくか。
そういうことを考えているとグルグルと考えて重くなった気分が少し晴れやかになる。
このような、何となしの爽快感こそが、第一歩なのではないだろうか。

少し前から意識の感覚、何となく感じる疲れや幸福とは何かを研究している。
左脳的な考えでは幸福に至れない、気がする。
右脳的な、意識の感覚のような、そういうものを手中に収められたら、自分の「気分」も自在に出来るのだろうか?

心理,日記

心理学について自分が興味を持っている、とメタ認知していると思いついたことがある。
自分は、理解されたいんじゃないかと。

自分の心なんて他人はもちろん自分にも分からない。
だが経験上、人付き合いへの快楽を感じる神経はかなり少ないように思う。
だから「人は他者と付き合っていきたいものだ」という無根拠な説には違和感しか無い。
他者から理解されたい、なんて思いも無い、とは思っていたのだが。

自分と世間一般との感じ方の違いについて知りたい思いもあって、心理学について学んでいる。
特に精神分析は好きだ。MBTIやBig fiveが主に好きだ。
しかし様々な分析を行う時、9割は自分の性格を深く知ることに用い、特定の他人の心理の分析をしたい思いは無い。
自分は自分のことを理解したいと思っているのだろう。
そして何の疑問もなく科学をその手法としている。
つまり私は科学に対して信頼を寄せている。現実の他人よりも。
私のことを理解できるのは科学しかないのではないかと考え、期待を寄せている。

私はなぜこうも科学を信頼するか。
データを積み重ねているからだ。
結果が期待を裏切られることがある。それが良い。
無根拠で良いのなら、どんな結果だって導けるだろう。
君は幸せだということも、君は不幸だということも。

信頼は宗教心に近い。
何か信頼できるものがあればいくら孤独でも何も問題はない。
信頼できるものがないから、孤独に問題が出てくる。
うわっついた心は安定状態を求める。
なるほど、信頼というのは安定状態に至る道か。

日記

金曜日に有給もらって、22~24日にかけて登山旅行していた。
公共交通機関と宿を多く使ったので25000円くらいは使ったが、天候に恵まれてトラブルもなく、上出来の旅だった。

晴れの休日だったからか山頂には多く人がいた。
寒風が吹きすさんで妙に寒かったが、半袖の人がいたのは驚き。
え~…自分ってもしかして寒がりになっとるのだろうか。
筋力不足?新陳代謝不足?老化?
とかちょっと不安がっていたが、寒ければ服を着れば良いだけだよな。
昔から自分1人だけ上着を着て通学していたこともあった。
そんな自分でも着込むだけで今まで暖房無しで冬を過ごしていたんだ。

でもまあ寒さ対策として電気毛布を注文しておいた。
ストーブより電気代は安いし熱効率良くて調整もしやすいし、場所もとらない。

日記

10月後半になると全国的に一気に寒くなって、身体が慣れてないこともあって妙に寒い。
通勤時のジャケットがメッシュから真冬用に変わったのはもちろん、室内でニット帽を被り始め、布団+毛布の2枚を用意。
本当についこの前まで夏らしさが残っていたのに、1ヶ月ほど季節が進んで冬らしい。

寒くなると心も少し変わって、寒気は寂しさを導く。
もう昔に比べて新陳代謝も変わったのだ。暖房なしで過ごしてきたが、電気毛布くらい買っても良いか。
冷え冷えとした外に比べて中はぬくぬくとしているだなんて、幸せじゃないか。
それに寒くなると運動しやすいし、案外冬のほうが活動しやすいはずだ。

まずは、急激な気温の変化に参らないようにすることだね。
大げさなくらい防寒対策して、冬を我が物に。

日記

小学生の頃からネットに触れている人間だから、本なんかより検索性の高いネットのほうが良いに決まっている、と思っていた。
だからネットに足りないものは自分で書き足して、最高の知識体系を作る一助になりたいと思っていた。
実際、その思いでブログを書いたり他の場所で書き込みをしたりしていた。

だが最近は本当に検索性が下がった。
主にグーグルが悪い、のだが彼らも営利企業だからそのジレンマはしょうがないところもあるわけで。
金を稼ぐことで更に良いものを作ることに投資が出来るのだが、大きくなりすぎて金稼ぎに躍起になりすぎたのか、検索性はどんどん下がっている。
ネットに確かな情報を与えるという崇高な目的を持つ人々よりも、金銭目的のための記事作りも多すぎている。
多数派に迎合し、少数派を無視し、検索結果を捻じ曲げてでも多数派の結果に誘導しようとしている。
一体何度俺はダブルクオーテーションで検索文字を固定しないといけないんだ!

昔はネットが世界標準の情報源となる、と思っていたが現状はその思いも変わりつつある。
全ての人が最高の情報に触れ続けられる、わけなんかなくなった。
もうどうでもいいや、世界に素晴らしい情報を提供するなんてことに報いは無い。
ネットなんかより査読されている本を読み、自分の知らないことをメモし、読書メーターにまとめて記録している。
自分本位だがもうこれで良いや。

ネットの衆愚政治、ここに極まれり。いや、ピークはこれからかも。

心理,日記

徳島に戻ってきた理由、それは郷愁も関与している。
それ以来、そういう感情、喜怒哀楽では済まされない高次なのか原初なのか分からない心理についての興味を持ち出した。

仏教や分析心理学なんかを少しずつ学んで自分の心をサンプルにして探求しているが、まだあまり分かっていない。
しかしおそらく、この感情のジャンルは「意識の感覚」の内に入るのだと思っている。
例えば特定の風景や絵を見て、「美しい」と感じる、それは何か?
刺激としては視覚が大きいだろう。目を瞑っていても絵を美しいと思うか?
だが、その視覚情報を頭に入れて沸き起こる感覚、それが意識の感覚のようなものだと思っている。
般若心経では意識も感覚器官としているが、その意識による作用、なのではないか。

そういう意識の感覚も「空」だとされるが、しかしその前にまずは意識というものを知ることから歩まねばその先へはいけないはずだ。
過去をふっと思い出して幸せの原風景を思い浮かんで、言葉には出来ない何かが心と身体に押し寄せてくる、その感覚ってなんだ。
いや、全ての感覚は言葉には出来ない。
自分と他人の見ている景色が実は違っているという考え方の如く。

最近はそういう意識の感覚について、瞑想を通じて追求している。

日記

コロナもかなり収まって、県外への旅行も幾分行いやすくなってきた。
また、徳島にはプレミアム交通券や応援割といった交通と宿泊の補助があるから、これらを利用しようと考えると旅行欲も湧いてきた。

10,11月は宿泊込みの旅行を2,3回、年末年始にも長期で行きたい。
近畿がメインだが、年末年始に屋久島行けたらなー!と思ってる。
そんで宮之浦岳登るんだ。

でも年末年始は仕事の状況がどうなっているかはわからない。
このまま今の職場に4月までいられたら、と思うんだが。
だって、こうやって思う存分旅行の予定を立てられるくらい、土日祝が完全に休みだし有給も付与してくれているんだから。

日記

心理学についてまだまだ調べたり考えたりしているが、開放性とされるもの、直観性と感覚性とされるものの要素は人の生きかたに非常に大きな影響を与えると思う。
開放性が高いことはユング心理学での直観性に相関があるようで、知性や好奇心などの能力に相関がある。
「低学歴ほど保守的になる」という傾向があり、これは面白いと思わないか。
高学歴ほど直観的になる、というのは見えないものを信じたり追求したりする傾向がある。
基礎学力とされるものは現実には直接役立たないものが多いが、実学の裏にある理論を理解するには必要だ。
そういう現実から離れたものを、開放性が高いと扱うのが得意になる。

開放性が高いと他にもどのような影響が出るだろうか。
知的好奇心が強いってことは逆に同じような環境には満足を覚えにくい。
保守的な人間は同じ環境ほど安心できる。
先が見えてしまうことを絶望だと感じる人もいれば、安心だと感じる人がいる。その違いは開放性か?

人混みが嫌いで静かな場所が好きな内向的な自分でも、都市部の最先端さを感じられそうなところには憧れを抱くこともある。
だが行ってみると、しょうもないことで喜んでいる閾値の低い娯楽が多く、ハイエンドも存在するがコスパが悪い。
ハイエンドに達するには全ての力をそれに費やすくらいでないといけないが、そこまで一つのことばかり追求したいわけじゃない。
総合的な、社会への効用とかを感じたいのなら、人口が低いほど感じやすい。
だが、保守的な雰囲気と遅れている雰囲気があるわけで。
そういう雰囲気こそが、知的な人たちを地方から都市部へ行かせ、多数派の保守的な人間が彼らを理解せず追い出すかのようにするから、ますます都市部へ向かう。
だが人々が都市部へ向かうことが一般になれば、保守派が都市部へ行くことになるだろうか。いや、もう既になっているだろうか。

リベラルたちを地方に向かわせる何かを、この徳島で作れないものか?
システムであったり、雰囲気であったり、経済的な後ろめたさがあるなら経済的な利点を用意するか?