日記

年末年始は1週間近く公休になってるので、旅行に行くことにした。
去年同様、レンタカーで登山旅行だけど。

今回は九州行ってみるのだ。
年末年始でも九州なら豪雪にはならないはず!
あと、九州を制覇すれば西日本の300名山踏破出来るし。

クリスマスにもなっている週末は道具を整え、すぐに出発できるように用意する。
28日に仕事を終えたらすぐに車を借りて、積み込みを終え、次の日の3時に起きて出発するのだ。
年末年始は国交省が休暇の分散を考えて高速道路の料金割引なし。
深夜割引を使うべく、早朝出発。
九四フェリーは予約が埋まっていて、夜くらいしか空いてない。

最近は無理して旅行に行くことなくて、記念日だったり大型連休の時に条件が合えば行くくらいだ。
好奇心とか冒険心とかはやっぱり学生の頃に比べたら減ったよなあ、と思う。
300名山踏破する、って目標が無かったら、ダラダラと連休を過ごしていただろう。
ゲームと読書だけ。
だって今は強烈にやりたいこととか本能的な衝動が無いもの。

そう言えばたまに焼酎を飲んでるんだが、以前のようなほろ酔いによる多幸感が90%ほど減った気がする。
酔いが足りないのかと思って飲み続けると、苦しくなるだけだ。
もしかして本当に、生理的に多幸感の感受性が減ったのだろうか。
最近はその研究くらいが、自分の知りたいことになっている。

日記

12月20日は誕生日なのだ。
この日で32歳。
2の5乗でキリが良いな!

その前日の19日は休日だったので、淡路島一周していた。
寒気がやってきていたので面倒くさーとか思ってたけど、朝起きると風が少なかったのでやっぱり行った。
でも日が昇るにつれて強風になって過ごしにくくなったけど…

いつも東海岸→西海岸のルートだったけど、毎回同じでは芸が無いので、西海岸からスタート。
交通量は少なく、走りやすい道なので淡々と走っていける。
昔は道沿いの人々の生活を想っていた。今も、旅する民俗学者の記述を参考に生活を思い描いている。
そこに生きる人、もしそこに自分が生きたとしたら。
そして今ここに生きている私も、誰かのモデルになり得るものだとも思ったり。

寒いので早々に温泉を目指す。
明石海峡を望む松帆の浦の温泉に入る。
冷えた身体で入る温泉は最高だ。冬の唯一の楽しみと言っても良い。
その後、東海岸を下っていく。
淡路島で古刹の寺に行ってみたり、最後にうずの丘大鳴門橋記念館で玉ねぎバーガーを食べたり。
冬至近くに生まれた私の誕生日は、毎年このように柔らかな日差しと共にある。

誕生日当日は洋菓子店でケーキを買って食べた。
こんな時くらい、良いよね。
洋菓子店の人たちも、記念日を迎える人たちを毎日のように迎え入れているのだろう。
半ば他人を祝うためのような仕事、って考えたら感慨深いものがある。

日記

自分の人生で初めてオタク的にはまったのは、魔法陣グルグルだった。
連載当初からずっと追い続けて、ではなくて中断期間があったんだけど、中学生の頃にふと思い出して最終巻まで買った。
その時にエンディングにすごく感動して。
あのエンディングも今の私と同じように、過ぎ去りし日々をかけがえのない大切なものだと捉えるようなものだったんだけど。

親からもらった古いパソコンがあったからネットを自由にできた。
その時に2chにも出会って匿名掲示板やらお絵かきファンサイトやら同人やらを知ることも出来た。
サブカル的な趣味はその時に始まったと言って良い。

最近の私は自分の感情、特に好意や多幸感や愛といったものについて注目している。
過去のあの時の私は、今思えば確かに好意のような感情があった。
強烈に動く心があった、と思う。
だからあの時の心に戻ることをすれば、今の私にも愛が戻るのではないかとも思う。
また、あの頃の自分の心を思い出すと、あの時の幸せも蘇ってくる。

で、今こんなことを思い出しているのは、某掲示板でたまたまグルグルの旧OP,EDが貼られていたからだ。
音楽や絵の視聴で、様々なものが想起され、心は穏やかになってゆく。
私の人生に、これは、今でも影響しているし、もしかしたらたまたま出会ったこんなものが人生最後まで影響するんじゃないか、とふわりとした想像が物語性を更に感じさせてくれる。

そりゃあの時はこんなおっさんになっても懐かしくそれを思い出すことになるだろうなんて思いもしなかった。
何が将来の自分の幸せになるかなんて分からない。
だけど、今の好きを追いかけるのは、間違いじゃなかったんだ。

心理,日記

合理主義な人間は感情を重視しない冷徹、と言われる。
では合理主義当人は感情が多いのか、少ないのか。
基本的には少ないほうだと思う。
というより、感情が少ない人間ほど「理」と呼ばれるものを代わりに価値観にするが故に、合理主義となるのではないだろうか?
合理主義でいれば感情が少なくなっていくのか、感情が少ないから合理主義となるのか。
一考の価値はあると思う。

さて私は合理主義で感情が少ない人間…だと思う。
だけどこうやって連日自分の感情の無さを考えるってことは、感情に対して価値を認めていることではないだろうか。
大事でも何でも無いと思っていることに、意識することは少ないだろう。
そういうわけで自意識としては、感情に重きを置いているが、その無さに悲しんでいる、といったところか。
そうやって悲しんでいることすら、疑問に思っていることも、感情ではある。

では今の私に何が足りないのか。
一応、感情というものはあるにはあるが、その中の一部が足りないのではないか。
おそらく、多幸感などと称されるものなのではないか。
多幸感は色々な行動や考えによってもたらされる。
寒い日に入る温泉だったり、空腹の時に食べる食べ物だったり、愛する人と一緒にいるときとかもあるらしい。
他には、薬、酒、タバコなどの化学物質を脳に作用させることでも多幸感は生まれる。

もしかしたら、人の幸せとは多幸感と呼ばれる脳内物質以外に存在しないのではないか、とも思うのだ。
どういう時に多幸感を生み出す物質を分泌するかによって人の性格や行動は決定され、環境や繁殖(連続性)に適応するものが生き残り、連続してゆく。
今の快楽ばかりを追いかけるのも、未来のことを考えるより多幸感があるから。
未来のことばかり考えるのも、今の感覚よりそういうことを考えるほうが多幸感があるから。
そういう「何となく、気持ちの良い」感覚に支配されているのではないかと。
そして、良いタイミングで多幸感を生み出すマイクロチップを脳内に埋め込めば、自分にとっても他人にとっても、思いのままに出来るのではないか、と。

日記

数カ月間、無料の郷土史の講義を聞いていて、今日が最終日だった。

参加者は定年を迎えた60代以上がほとんどで、自分のような30代辺りは皆無。
場違いっぽいが、参加者同士での交流はしないといけないわけではないので問題は無い。

さて内容としては、まあ図書館で郷土史資料漁るようなレベルか。
本を読むのではなくパワーポイントと耳で聞かせてくれるから普通の読書よりかは記憶に残るんだろうけど、その講義の場所まで行き来したり週末に別の予定を入れづらいというのがデメリットか。
全く知らなかった内容というのもあまり無く、想定の範囲内でもあったし。

とは言えこういう郷土史講義に参加する自分を客観的に見て、この町を更に知ろうとする住民らしい行動ではあると思う。
何も知らなければ感慨とか物語とかも知らず、なんの変哲のないただの場所としか捉えない。
日頃見ている風景に物語があって、理由があって、そういうのを感じながら生きていくのって、寂しくないじゃないか。
死ねば全てが無に帰す。忘れれば全てが無に帰す。独我論としてはそうなんだけど、でも何かが残るような、そういうのが少し頑張れる心の支えにもなったりする気がするのです。

日記

28日の日曜日に技術士1次試験があった。
申し込みは6月頃で、来年度以降の自分の身分がまだ確定していなかった時。
身分が未確定に戻ればおそらく自分の心情的にこの試験を受けることは無いだろう…
とも予想していたが身分が確定したので試験勉強して受けてみた。
1次試験が受かっても更に実務経験を積まないと、2次試験を受けて本物の技術士にはなれないけど。

さて、技術士試験の勉強は過去問のみで行った。
幸いにも過去問は公式サイトで公開されているので、それで勉強した。
解説が無く、わからない問題はその都度ネットや本で調べた。
暇な事務職ではそういう勉強がしやすく、自宅ではほとんど勉強せずに試験を受けた。

過去問を3週ほどしたので、本番も自信あり。
3種のマークシート試験を各5割以上取れば合格で、合格率は4,5割ほど。
だが手応えとしては9割以上とった感じはある。
問題なく受かるだろう。

さてこれで試験勉強から解放されたはずだが、仕事中にしていた勉強なので日常生活は全く変わらない。
心情的にも変わらない。
受かっても受からなくても結果がバレるような試験ではないから、試験前からリラックス出来ていた。
こういうリラックスしながら行う挑戦ほど、良いものかもしれない。
やらなくちゃいけない、受からないといけない、そんなものに幸福はあるのか。
試験が終わったあとの解放感以外何もない。

日記

自分が持っているノートパソコンは中古で2万のもので、ビジネス落ちのもの。

  • CPU:Core i5-4210M(コア数2、クロック2.60GHz)
  • メモリ:8GB
  • グラフィック:オンボード(インテルHDグラフィックス4600、400MHz、2GB)

以前セールでFF10がSteamで安くて買っていたのですが、積んでいました。
もっと良いパソコンが用意できたらプレイしよう…ということで別のカジュアルゲームを遊んでたのです。
しかしカジュアルゲームもかなり遊び尽くして、そろそろFF10をプレイしたいなと思うようになり。

元はPS2のゲームとは言え、2万で買ったノートパソコンでFF10HDが動くわけない!と思っていたしネット(ヤフー知恵○○)でもそういう評判でした。

で、試しにインストールしてプレイしてみると…

クソ雑魚ノートパソコンでも1920×1080でプレイできるやんけ!

流石に他のグラッフィクスオプションは低くしていますが、ラグとか全く有りません。
「今はただ映像を流しているだけだ。移動できるようになると飛びまくるんだ…」
とプレイしながら思っていても、数時間プレイしても余裕。

え?どういうこと?
元はPS2だから映像的に綺麗でも処理が圧縮されているとか?
このノートパソコンが案外能力あるとか?(AOE2DEは流石にきつかった)

何でもかんでも試してみるもんですな。
くそっ、あのヤフー知恵○○、適当なこと抜かしやがって。無自覚に嘘をつくやつが一番始末に負えぬ。

そんなわけでこれからFF10をプレイする日々が続くのです。

日記

というわけでずっと某ゲームの実績制覇の目処が立ったのでやっていたんだけど、そういう時は時間がどんどん過ぎていく。
結局まだもう少しかかりそうなんだけど、でも数ヶ月ボチボチやっていたのが遂に終わりそうな。

人間の生き方において、何だかんだ幸せなのは、こういう時間を忘れて集中している、つまりフロー状態だったりするようで。
グルグルと考えるのではなくて何かしらの目的に向かって行動している最中。
でもそのフロー状態と幸福について、哲学者は考えたことあるのだろうか。
西洋哲学にはありそうだ、では東洋哲学はどうだろう?

日記を書いていたら自分をメタ認知出来るし記録も出来る。
でもそういうメタ認知は太宰治の「トカトントン」のように、嫌な時も良いときも全て「どうでもいい」と思わせる効果もいくらかあるわけで。
だからまあ、いい意味で集中している時は、無理に日記を書かなくても良いのかなあ、とも思うわけで。

日記

俺は自由に生きるのだ

と26歳頃から雇われ労働は半年ほどで計画的に変えていた。
その半年の間の中で不満を感じることはもちろんあるが、良いところも発見していた。
どんな労働でも嫌なところを見つけて自室で悶々とするだなんて、ごく普通だしむしろ絶対あるものだと思っていた。

だが今の職場にはそういうのが無い。
すんなりと仕事を終えて100%定時で終わっていて、(自分はしたことないが)遅刻してもペナルティは全くなく。
「やってやるぜ~」と燃え上がる気持ちになることも無いが、平穏平凡に半年近く働いていることとなっている。

就業前は精神的に病んでいたし今でも健全とは言えぬが、この環境のおかげで助かった面は多い。
面接をしていた人たち、上司は薄々感じていたのだろうか、特に感じずルーチン的に接してくれたか。
どちらにせよありがたい距離感ではあったと思う。
別れの挨拶ではそういうことを言うのは、ちょっと突拍子がなさすぎることになるだろうから言わないが、何にせよ、感謝していることは伝えたい。

日記

有給休暇を取らせてもらって連休とし、3泊4日の旅行に行っていた。
旅行前の準備も慌ただしく行ったので、日記の日付がまた飛んだ。
いつものごとく1人で、レンタカーで行ってみた。
2021年11月からETC休日割引が復活し、節約できた。

車中泊2回、山中1回、どれも読書以外やることないので孤独な時間を送っていた。
寝袋に入って寝ようとすると、色々と考えてしまう。
寒々しい、孤独だが、人の温かみを知れる人間ではない、だから満たされることも無いのでは、とか。

そんな時は禅宗の勉強をしていたときに知った「脚下照顧」という言葉を思い返す。
先々のことを考え、完璧な人生を歩もうとすると破綻が来るのは必定だ。
今できることを、小さなことを一つ一つやっていくのだ。

グルグルと考えている時に、ふとプレイしているゲームの攻略方法を考える。
どのような準備をして、どのような戦術を取っていくか。
そういうことを考えているとグルグルと考えて重くなった気分が少し晴れやかになる。
このような、何となしの爽快感こそが、第一歩なのではないだろうか。

少し前から意識の感覚、何となく感じる疲れや幸福とは何かを研究している。
左脳的な考えでは幸福に至れない、気がする。
右脳的な、意識の感覚のような、そういうものを手中に収められたら、自分の「気分」も自在に出来るのだろうか?