日記

とあるゲームを終わらせるために一気にプレイしていたら、余暇にそれに対する時間を使いまくって日記すら書いてないからまた日付がとんだ。
2週間ぶりの日記に意味なんて……!?
仕事は繁忙期になっており、少し忙しいというのも理由だったけれど。

そうそう、仕事中に掲示物の張替え作業を行っていたんだけど、何か腰をかがめると妙に痛い。
仕方なしに膝の屈伸で物を取ったりしてたんだけど、痛さがだんだんと大きくなってくる。
掲示作業が終わって椅子に座っても少し痛く、前かがみになれないので妙に姿勢良くしてデスクワークした。
休憩のため席を立つと、なにかを手で掴まないと立てないほど痛い。

帰宅のためにバイクに乗るのも一苦労で、特に腰をねじる動作に痛みを感じるので、車線変更時の目視確認などが痛くてしづらい。
なのであまり速度も控えめにして、安全運転で帰る。
そして帰宅後も痛みはずっと続いており、この辺でようやく「これ、ぎっくり腰なのでは?」と思い至るようになる。
小さな腰痛は今までにもたま~にあったが、単に筋肉がつっていたり凝り固まっているようなものですぐに治るものばかりだった。

その後痛みはずっと続き、2日後の朝の今でも痛い。
寝るときなんて寝返り打てない。
両手で体全体を操作し、腰がひねらないように、身体を横にする。
寝返り打つだけで覚醒してしまうので、寝不足にもなる。

そんなわけで人生初のぎっくり腰は、32歳の3月ということになった。
腰は20代でやる人もいるから、まああり得ることなんだろう。
今まで腰痛者(安部菜々ちゃんとか)を笑っていたが、笑い事じゃねえ!
これが続けば運動そのものが嫌になって人生も楽しくなくなる。
やはり人生を楽しむには、健康こそが第一である。

日記

相も変わらず読書は続けている。
変わらぬ毎日だが、ゆっくりと変わっていたり考えが進んでいる感じはある。
1年前と今の自分は、明確に変わったと言える。
もちろん、それが良いとは限らないのだが。

近所の図書館の本も興味深いものはかなり読んでしまったような気がする。
そこそこ興味のあるレベルならまだまだ時間はかかるが。

最近は民俗学はもちろんだが仏教も学んでいる。
この2つを同時進行で学んでいるとある疑問が生じる。
「今は世襲の僧が多く、昔はそうではない。昔はなぜ僧になったのか、どのような心理状態で僧になるのか。辺鄙な場所にもなぜ寺はあるのか。民衆はそのような寺とどのように関わっていたのか」

これらの疑問は恐らく仏教民俗学という範疇になるだろうが、それに関する良書がまだ見つかっていない。
もっと綺麗事を抜かした生々しい記録が読みたい。それも、心理の方面で。

心理,日記

今日は阿波西国三十三観音霊場の徒歩巡礼をしていて、遂に終えた。
結願してめっちゃ達成感得られた~ってわけではなかったけどね?
でも達成感がそこまでではあっても満足感は無いかというと、そうじゃない。
やってよかったな、と思う。

最後の札所へ歩いている途中、不思議なことを考えた。

もしかして、受動的に生きることと能動的に生きることってあまり区別つかないんじゃないだろうか?

私は今、歩いている。
私は誰からも指示されず目標を設定し、それを達成しようとしている。
能動的だ、と言えるだろう。

しかし今、歩いている私はただ足を動かして目の前の風景をボケーっと見て「あっ、○○があるー」と素直に受け取っている。
ただ足を動かすだけで何かしらの刺激を得て、満足している。
これはテレビを見るだけで満足しているのとそう変わらないのではないか?

私が受動的に見ようとしているものは、実は能動的に見ている。
私が能動的に見ようとしているものは、実は受動的に見ている。

私が能動的に人生を変えようとしているのは、環境や脳の機能や記憶等の縁起によってであり、それらからの受動の結果である。
私の人生が受動的に変わろうとしているのは、環境等からの影響を撥ねつけないという能動の結果である。

私は能動と受動を両立するし、どちらも無い。
あるがまま、に?

日記

このブログは日記なのだが、だらだらと日を空けてしまった。

1月上旬はFF10をやり込んでいて、そのままの流れで10-2をプレイしている。
しかし……子供の頃はゲーム性がそこそこ好きで何気なくプレイしていたが、今になってプレイすると、正直少し苦痛だ。
ストーリーは深みや神性が無いし、ゲーム性もまれに面白いものがあるだけでだいたいは面倒なだけだ。
何だか、徒労感が大きいというか。

そうなんだよな。
大人になってやるゲームって、徒労感を感じてしまうんだよ。
膨大な時間をかけても得られるものは少ないし、プレイしているときは常に楽しいわけじゃない。
イラつくこともある。
仕事で疲れて帰ってきてやることか?と疑問に思うのもまあ分かる。

読書は読書で得られるものは多いが、ダラダラと楽しめるわけではなくて少し疲れる。
ダラダラとしたいならYoutubeが良いか。
Youtubeの中にもテレビの中みたいな芸能人的なキャラがいる。
彼ら彼女らもいつかはいなくなる。
だが、いつかいなくなるものなら全て価値が無いのなら、私の存在はまったくもって無価値である。
だからまあ、どうせ無価値なら今を無責任に楽しんでおけば良い。

日記

2022年、明けましておめでとうございます。
2022年だなんて、子供の頃は予想もできない未来の数値だったけど、遂にここまで来たかとも思う。

年末年始はレンタカーを借りて九州に行っていた。
トラブルは無く、大した計画は立ててなかったけど計画通りにいったと自負している。
三が日は日本晴れで、山の上は寒かったけどその分空気が澄んでいて、最高の景色を楽しめた。
九州は山も温泉も楽しい、良いところだった。

運転中や登山中は孤独だからしっかりと物思いに耽っていた。
大学生の頃からやっていることだが、恐らくその時からずっと、この時間が自分と向き合う時間、瞑想のようなものだったんだろうか。
内向的な人間はこういう状況でも自分1人で楽しめるってのが、良いじゃないか?

美しい風景を見て、心地よい音楽を聞いている時、その一瞬、何も言葉を考えず快感に身を任せられる時がある。
それが意識の感覚の一つだ。
その感覚をもう少し追い求めてみないか。
まだまだ人生には探求の余地がある。
漱石の小説の「行人」のように、私も真理への近づけなさに苦しむ時がある。
だが、2022年は「気を楽に」して一歩一歩ゆっくりと探求してみたいと思う。
結局、最後に行き着くのではなく歩いている瞬間が、真理になるのかもしれない。

日記,心理

仕事は、11月末で異動があって環境が変わっており、少し忙しくなった。
のは良いのだが、人間関係で「ん?」と思うことはある。
以前の職場は事務系の中年の男ばっかりだったけど、優しい人ばかりで居心地は非常に良かった。
男なのに上下関係を厳しくしない人って、もしかしたら一番良いタイプなのかも。

とは言え、今の職場も別に上下関係が厳しいわけではない。
しかし女性が多いからか、何となくやっぱり事務系の男性とはなんか違う思考回路をしており、それがたまに疲れる。
悪い意味でいい加減、悪い意味で細かいというか、注力するべきところが男と女で違う気がするのだ。

さて今日、本当にしょうもないことだとは思うけど、久しぶりに命令に抗うか、不満を抑えて命令を聞くかの判断に迷うことがあった。
小さなしょうもない書類を集めるのだが、本当にいつでも出来ることなんだから次の機会に一気に集めようと思っていたのだが、ヒステリックに「指示通りに集めろ!」という指示が飛んできた。
その書類を集める理由や時期を、自習した自分よりもよく分かってもいない。
「これって、こうですよね?」と聞いても「えっ?そうなの?」とよく分かっていないし、指示を修正もしない。
今の状況・時期で集めるだなんて効率が悪い、1,2ヶ月先のことすら効率化させようとしないのか、とも考える。
だからそういうことを全て言おう、と思ったのだが同時に、自分は勤務1ヶ月の人間であるとも考える。
結局、不満を持ちながら指示を得て、やる気なく集める作業に出た。
そうして今、その不満をここで打ち明けているのだ。

しかし怒りの感情をこちらも少し顕にしながら少ない反論をした時、同時に「あっ、今の自分にコダワリってあるんだ」と感慨を覚えた。
うつ病、統合失調症陰性症状患者のように、「拘りも生きる気力も何もないんだ」と日頃素気なく生きているわけだが、その拘りを感じることでかつてのエネルギーの源泉を感じもした。
そう言えば、1人で山に登りだしたのも、「あいつらとつるまなくたって、1人で山に登れるんだ!」という反骨心もあった。
そうか、僕には反骨心があった。
それを過ちだとは思わないで。過ぎ去りし日の自分はそれを運動する糧にしていたことが、確かにあったんだ。

日記

年末年始は1週間近く公休になってるので、旅行に行くことにした。
去年同様、レンタカーで登山旅行だけど。

今回は九州行ってみるのだ。
年末年始でも九州なら豪雪にはならないはず!
あと、九州を制覇すれば西日本の300名山踏破出来るし。

クリスマスにもなっている週末は道具を整え、すぐに出発できるように用意する。
28日に仕事を終えたらすぐに車を借りて、積み込みを終え、次の日の3時に起きて出発するのだ。
年末年始は国交省が休暇の分散を考えて高速道路の料金割引なし。
深夜割引を使うべく、早朝出発。
九四フェリーは予約が埋まっていて、夜くらいしか空いてない。

最近は無理して旅行に行くことなくて、記念日だったり大型連休の時に条件が合えば行くくらいだ。
好奇心とか冒険心とかはやっぱり学生の頃に比べたら減ったよなあ、と思う。
300名山踏破する、って目標が無かったら、ダラダラと連休を過ごしていただろう。
ゲームと読書だけ。
だって今は強烈にやりたいこととか本能的な衝動が無いもの。

そう言えばたまに焼酎を飲んでるんだが、以前のようなほろ酔いによる多幸感が90%ほど減った気がする。
酔いが足りないのかと思って飲み続けると、苦しくなるだけだ。
もしかして本当に、生理的に多幸感の感受性が減ったのだろうか。
最近はその研究くらいが、自分の知りたいことになっている。

日記

12月20日は誕生日なのだ。
この日で32歳。
2の5乗でキリが良いな!

その前日の19日は休日だったので、淡路島一周していた。
寒気がやってきていたので面倒くさーとか思ってたけど、朝起きると風が少なかったのでやっぱり行った。
でも日が昇るにつれて強風になって過ごしにくくなったけど…

いつも東海岸→西海岸のルートだったけど、毎回同じでは芸が無いので、西海岸からスタート。
交通量は少なく、走りやすい道なので淡々と走っていける。
昔は道沿いの人々の生活を想っていた。今も、旅する民俗学者の記述を参考に生活を思い描いている。
そこに生きる人、もしそこに自分が生きたとしたら。
そして今ここに生きている私も、誰かのモデルになり得るものだとも思ったり。

寒いので早々に温泉を目指す。
明石海峡を望む松帆の浦の温泉に入る。
冷えた身体で入る温泉は最高だ。冬の唯一の楽しみと言っても良い。
その後、東海岸を下っていく。
淡路島で古刹の寺に行ってみたり、最後にうずの丘大鳴門橋記念館で玉ねぎバーガーを食べたり。
冬至近くに生まれた私の誕生日は、毎年このように柔らかな日差しと共にある。

誕生日当日は洋菓子店でケーキを買って食べた。
こんな時くらい、良いよね。
洋菓子店の人たちも、記念日を迎える人たちを毎日のように迎え入れているのだろう。
半ば他人を祝うためのような仕事、って考えたら感慨深いものがある。

日記

自分の人生で初めてオタク的にはまったのは、魔法陣グルグルだった。
連載当初からずっと追い続けて、ではなくて中断期間があったんだけど、中学生の頃にふと思い出して最終巻まで買った。
その時にエンディングにすごく感動して。
あのエンディングも今の私と同じように、過ぎ去りし日々をかけがえのない大切なものだと捉えるようなものだったんだけど。

親からもらった古いパソコンがあったからネットを自由にできた。
その時に2chにも出会って匿名掲示板やらお絵かきファンサイトやら同人やらを知ることも出来た。
サブカル的な趣味はその時に始まったと言って良い。

最近の私は自分の感情、特に好意や多幸感や愛といったものについて注目している。
過去のあの時の私は、今思えば確かに好意のような感情があった。
強烈に動く心があった、と思う。
だからあの時の心に戻ることをすれば、今の私にも愛が戻るのではないかとも思う。
また、あの頃の自分の心を思い出すと、あの時の幸せも蘇ってくる。

で、今こんなことを思い出しているのは、某掲示板でたまたまグルグルの旧OP,EDが貼られていたからだ。
音楽や絵の視聴で、様々なものが想起され、心は穏やかになってゆく。
私の人生に、これは、今でも影響しているし、もしかしたらたまたま出会ったこんなものが人生最後まで影響するんじゃないか、とふわりとした想像が物語性を更に感じさせてくれる。

そりゃあの時はこんなおっさんになっても懐かしくそれを思い出すことになるだろうなんて思いもしなかった。
何が将来の自分の幸せになるかなんて分からない。
だけど、今の好きを追いかけるのは、間違いじゃなかったんだ。

心理,日記

合理主義な人間は感情を重視しない冷徹、と言われる。
では合理主義当人は感情が多いのか、少ないのか。
基本的には少ないほうだと思う。
というより、感情が少ない人間ほど「理」と呼ばれるものを代わりに価値観にするが故に、合理主義となるのではないだろうか?
合理主義でいれば感情が少なくなっていくのか、感情が少ないから合理主義となるのか。
一考の価値はあると思う。

さて私は合理主義で感情が少ない人間…だと思う。
だけどこうやって連日自分の感情の無さを考えるってことは、感情に対して価値を認めていることではないだろうか。
大事でも何でも無いと思っていることに、意識することは少ないだろう。
そういうわけで自意識としては、感情に重きを置いているが、その無さに悲しんでいる、といったところか。
そうやって悲しんでいることすら、疑問に思っていることも、感情ではある。

では今の私に何が足りないのか。
一応、感情というものはあるにはあるが、その中の一部が足りないのではないか。
おそらく、多幸感などと称されるものなのではないか。
多幸感は色々な行動や考えによってもたらされる。
寒い日に入る温泉だったり、空腹の時に食べる食べ物だったり、愛する人と一緒にいるときとかもあるらしい。
他には、薬、酒、タバコなどの化学物質を脳に作用させることでも多幸感は生まれる。

もしかしたら、人の幸せとは多幸感と呼ばれる脳内物質以外に存在しないのではないか、とも思うのだ。
どういう時に多幸感を生み出す物質を分泌するかによって人の性格や行動は決定され、環境や繁殖(連続性)に適応するものが生き残り、連続してゆく。
今の快楽ばかりを追いかけるのも、未来のことを考えるより多幸感があるから。
未来のことばかり考えるのも、今の感覚よりそういうことを考えるほうが多幸感があるから。
そういう「何となく、気持ちの良い」感覚に支配されているのではないかと。
そして、良いタイミングで多幸感を生み出すマイクロチップを脳内に埋め込めば、自分にとっても他人にとっても、思いのままに出来るのではないか、と。