日記,心理

徳島に戻ってきた理由、それは郷愁も関与している。
それ以来、そういう感情、喜怒哀楽では済まされない高次なのか原初なのか分からない心理についての興味を持ち出した。

仏教や分析心理学なんかを少しずつ学んで自分の心をサンプルにして探求しているが、まだあまり分かっていない。
しかしおそらく、この感情のジャンルは「意識の感覚」の内に入るのだと思っている。
例えば特定の風景や絵を見て、「美しい」と感じる、それは何か?
刺激としては視覚が大きいだろう。目を瞑っていても絵を美しいと思うか?
だが、その視覚情報を頭に入れて沸き起こる感覚、それが意識の感覚のようなものだと思っている。
般若心経では意識も感覚器官としているが、その意識による作用、なのではないか。

そういう意識の感覚も「空」だとされるが、しかしその前にまずは意識というものを知ることから歩まねばその先へはいけないはずだ。
過去をふっと思い出して幸せの原風景を思い浮かんで、言葉には出来ない何かが心と身体に押し寄せてくる、その感覚ってなんだ。
いや、全ての感覚は言葉には出来ない。
自分と他人の見ている景色が実は違っているという考え方の如く。

最近はそういう意識の感覚について、瞑想を通じて追求している。

日記

コロナもかなり収まって、県外への旅行も幾分行いやすくなってきた。
また、徳島にはプレミアム交通券や応援割といった交通と宿泊の補助があるから、これらを利用しようと考えると旅行欲も湧いてきた。

10,11月は宿泊込みの旅行を2,3回、年末年始にも長期で行きたい。
近畿がメインだが、年末年始に屋久島行けたらなー!と思ってる。
そんで宮之浦岳登るんだ。

でも年末年始は仕事の状況がどうなっているかはわからない。
このまま今の職場に4月までいられたら、と思うんだが。
だって、こうやって思う存分旅行の予定を立てられるくらい、土日祝が完全に休みだし有給も付与してくれているんだから。

日記

心理学についてまだまだ調べたり考えたりしているが、開放性とされるもの、直観性と感覚性とされるものの要素は人の生きかたに非常に大きな影響を与えると思う。
開放性が高いことはユング心理学での直観性に相関があるようで、知性や好奇心などの能力に相関がある。
「低学歴ほど保守的になる」という傾向があり、これは面白いと思わないか。
高学歴ほど直観的になる、というのは見えないものを信じたり追求したりする傾向がある。
基礎学力とされるものは現実には直接役立たないものが多いが、実学の裏にある理論を理解するには必要だ。
そういう現実から離れたものを、開放性が高いと扱うのが得意になる。

開放性が高いと他にもどのような影響が出るだろうか。
知的好奇心が強いってことは逆に同じような環境には満足を覚えにくい。
保守的な人間は同じ環境ほど安心できる。
先が見えてしまうことを絶望だと感じる人もいれば、安心だと感じる人がいる。その違いは開放性か?

人混みが嫌いで静かな場所が好きな内向的な自分でも、都市部の最先端さを感じられそうなところには憧れを抱くこともある。
だが行ってみると、しょうもないことで喜んでいる閾値の低い娯楽が多く、ハイエンドも存在するがコスパが悪い。
ハイエンドに達するには全ての力をそれに費やすくらいでないといけないが、そこまで一つのことばかり追求したいわけじゃない。
総合的な、社会への効用とかを感じたいのなら、人口が低いほど感じやすい。
だが、保守的な雰囲気と遅れている雰囲気があるわけで。
そういう雰囲気こそが、知的な人たちを地方から都市部へ行かせ、多数派の保守的な人間が彼らを理解せず追い出すかのようにするから、ますます都市部へ向かう。
だが人々が都市部へ向かうことが一般になれば、保守派が都市部へ行くことになるだろうか。いや、もう既になっているだろうか。

リベラルたちを地方に向かわせる何かを、この徳島で作れないものか?
システムであったり、雰囲気であったり、経済的な後ろめたさがあるなら経済的な利点を用意するか?

日記

色々やったりやらなかったりしたら間が出来てしまった。

子供の頃とかは今やっていること関係なしに、何になりたいかとか、何が好きだとかを聞かれ、決めていくことが多いだろう。
今は思う。
やりたいことは必ずしも好きなことじゃない。やっていることが好きなことなんだと。
やるなと言われてもやってしまうこと、今考える必要が無いのに考えてしまうこと、そういうのが好きなこと。
好きなこととは、呪いに近い。
宿命のようにせざるを得ない、そういうものだ。

自分が今考えていること、パーソナリティと生理学、人事について。
今の業務には関係ない。だが考えることが面白いから考え、それに関係する本を図書館で借りて読んでいたりする。

呪いのように気を向けていると、必然的に他人よりもそれに対して時間を費やすようになる。
このほとんど無意識のような時間の積み重ねが、その人のハロー(HALO)となっていくようにも思う。
外交的で開放的で共感的で誠実な、ムカつくくらい素晴らしい人がいる。
だがその人には内向環境で刺激を断って一直線に真理へ向かっていく人に比べると、たとえどれだけ能力・気質が素晴らしくともかける純粋な時間が足りない。
真理へ向かうとしても他人のことを気にかけて半端なところで思考が止まってしまう。

そういう、人の個性をうまく組み合わせ、立ち位置を定め、使えていけば、どんな素晴らしくて面白い社会となりましょう。
私は見てみたい。

日記

土日祝の3連休は蔓延防止や緊急事態宣言が出ていない地域に2泊3日で旅行に出ていた。
いつものごとくソロツーリング。
宿は楽天トラベルでほぼ最安のものを探した。
寝る場所としてはキャンプより安旅館のほうが良いように最近は思う。

全体的な感想としては、規制の無い地域から規制の無い地域に行こうとも、規制地域から退去してやってくる人間が多すぎるから結局完璧な感染防止が出来たとは言い難い。
おいおい、大阪・神戸は少しは自粛してくれ。
せめて少数で行動してくれりゃ良いんだが、大抵は家族連れ。リスクも高い。

まあでもコースとしては良いものだった。
晴れの海沿いのドライブはやっぱり美しいもので、青空の濃淡のグラデーションや水平線を眺めながらぽけーっと走るのは心が洗われる思いがする。
まあ、規制地域の人々が旅行したいと思うのは無理ないことだけれど。
こうやって、新しい景色を求めて動かないと、身体も心も凝り固まっていくから。

日記

仕事は相変わらず暇である。
もはや暇に慣れすぎて暇な仕事であるか否かの判断すら危うくなってきた。
暇な、はずだ。

パソコンに向かっているので適当にネットサーフィンで終業時間まで過ごすこともあるが、やはり生産的ではない。
色々と勉強していたが、今はとある分野の技術士と公務員試験の問題集を作成している。
過去問を取り寄せ、パソコン上に取り込んでデータベース化し、外部のフリーウェブアプリ的なもので別のサイトに公開したいと考えている。

過去問には正答番号が載っているだけで解説は無い。
なのでその公開問題集にも解説を加えるつもりだ。
だがもちろん解説を書くためには勉強せねばならない。
これがまあかなり疲れる。
完成には数ヶ月を要するだろう。
だが完成すれば日本で唯一の、その分野の解説付き問題集となるだろう。
自分の勉強にもなるし、広告でも入ればお金も儲かる?

人間は暇であれば何かしらを改善しようとするものか。
もしくは何もせずダラダラと過ごすだけだろうか。
それはまあ、性格の差だろう。
その性格を数値的に表せないかね?
…なんて疑問が思い浮かぶとグーグルスカラーで心理学の論文を漁っていて、問題集づくりも中断してしまうのであった。

日記

日常的に生きている。
同じような時間に起きて同じような日課をこなして生きている。

自分の心は変わった、と思うがどのように変わっただろうか。
10代は登山を初めとする余暇に多く頭を使っていた。
興味を持てるもの追うのなら、学問よりほかの趣味の方が興味が持てる、だから意義があまり感じられなくなった。
ただ周りに似た道は、未来に希望を持てなかった。
社会的な価値観に疑問を持つようになったのはこのへんか。

20代中盤、夢を果たすため努力した。
そしてかなった。
あの時は立てた目標のための勉強など、具体的な行動に頭を使っていた。
色々なものに対して「これは使えるか?」「これは美しいか」と対外的な興味が多かった。

数年後、だんだん切ないものや感慨に興味が惹かれた。
切ない音楽、過去への憧憬にふけられる町を歩くこと、過去の自分が成したこと。
心地よい孤独感があり、虚しい喪失感もあった。

そうして故郷に帰った。
だがやはり、捨てようと思ったから故郷は美しいのであって、戻ってくるとその感覚も薄れてしまう。
ゆえに、再発見によって客観性を持とうとしている。
空っぽの心で、ここが故郷ではなくて旅行に来たような、いや本当はここは沖縄なんじゃないかと浸って散歩をすると、やはりここは美しい場所である。

しかし、だからって10代や20代前半の頃のような熱気は無い。
その燃え上がる感情の無さに対して喪失感を持っているのが、現状だ。
このまま、熱意は無いままなのか、と。
だけどこうやって振り返ると、10年ほどの間でも感情は大きく揺り動いている。
良くも悪くも、人は変化せざるを得ない。
だからこの感情も変わるかもしれないし、喪失感そのものが無くなるかもしれない。
熱意が無いのは駄目なことだと早合点するのではなく、まずは認めてあげることだ。
そうして、移り変わることを楽しんでいければ、これこそ安楽じゃないか。

日記

アウトドア的なことが好きだと思っていたけど、もしかしたら新しい景色を見にいくような、旅の要素があるものが好きなんじゃないか。
発見が好きなんじゃないか、そう思っている。
手段としてキャンプとかがあったんであって。

というわけで外に出られる時は、小さくても良いから新たな発見が出来そうなものをやってみよう、と考えている。
だが今はコロナで県外には行きづらいし、行っても休業やイベントの中止ばかりだ。

そこで、徳島県内の徒歩旅をしてみようと考えている。
そして踏破が感じられるものが良いだろう。
ということで、四国のみちと阿波西国三十三観音霊場について情報収集している。

四国のみちは四国を一周するように自然探勝路を繋いでいくような道で、遍路道を被ることも多い。
こういう自然歩道は日本全国で整備されている。
だが昔作ったものだから、完璧に整備されているわけではないのが現状。
だが、徒歩旅を行いたいなら良いコースだろう。

阿波西国三十三観音霊場は徳島市以北の寺を巡るコースで、ウェブサイトとかは整備されている。
交通の便が良い地域だから途中で中断しながら、毎週歩くなんてこともしやすい。

徳島なんて見飽きたところだ。
だがこうやって徒歩旅をすれば客観的目線を持てて新しい発見があるかもしれない。
客のように徳島を見て、ここには何があるかを再確認したい。

日記

8/31からこの日記書いている9/2にかけて、急に首や肩が痛くなった。
ただの寝違えとかだと思っていたが、発生日の次の日も2日後も痛い。
痛くって真横を向くことも辛い。
常に痛いから集中もできないし、色々と億劫になる。
バイクの安全確認もしづらいから通勤も辛い。
幸い、仕事は楽だが。

姿勢が悪いのか、最近ストレッチとか一切してないから、体が凝り固まっているのか?
と思って、朝活にラジオ体操第2を加えることにした。
ラジオ体操第1でもデスクワーカーにとってはかなりのストレッチとなるが、第2までやるとかなり健康的になるのではないか。
第2は第1よりも運動強度が高いらしい。
そういうわけで今の朝のルーチンワークは、

  1. 昼食(ホットサンド)を作る。
  2. 作っている間に洗い物を済ませる。
  3. 朝食(トースト)をホットサンドメーカーで作る。
  4. 朝食を摂る。(トーストとインスタントコーヒー)
  5. ポイントサイト巡回とメールチェック。
  6. ひげ剃り、洗顔、トイレを済ませる。
  7. ラジオ体操第1、第2(約10分)
  8. 着替え。
  9. 出発時間(7時50分)まで瞑想(約20分)
  10. 出発

とまあ盛り沢山だ。

さて、この痛みだがストレッチによって…治ってはいない。
だが姿勢を色々変えて分かったのは、肩を意識的に上げておくと常時の痛みは緩和されるようだ。
うつ伏せで肘ついて読書する、ような姿勢ではかなり楽。
最初は首が痛いと思っていたが、もしかしたら肩なのではないか。
両肩同時だから脱臼とかではない気がする。
なんなんすかね?

旅行,日記

晴れの休日、試験も終わったので久しぶりにキャンプしてみることにした。

蔓延防止とか色々出ているので徳島県外には行かず、県内で済ませることに。
最高気温が35度超えの猛暑日なので、標高の高いところが良いだろう、ということで標高1000m近くの神山と木沢の峠近くにある「岳人の森」へ。

…の前に時間があるので、手前の「神通の滝」へ寄ってみた。
林道を少し走って遊歩道を登っていくと、滝が現れる。
猛暑日だが樹冠の下の水気の多い環境は非常に涼しく、夏涼みには滝巡りはもってこいである。
滝巡りは良い…リリンの宝だよ。

神通の滝は勢いがあるのか霧状になる率が高いように見えて、滝壺付近は非常に潤いがある。
暑さは全く無くてずっといれば肌寒いほどだ。
心地よい。

そうして岳人の森キャンプ場の管理棟兼食堂の「観月茶屋」へ。
ここで冷やしそばを食べ、受付を済ませる。
14時までのチェックインならアーリーチェックインとなり、500円追加。
薪は種類があり、綺麗なものなら500円とかするが雑薪なら200円。
雑薪は、ただの枯れ枝のようなもので、鉈や斧は必須。
自分はこれを選んだ。

当日受付としたがコロナ禍の休日だけあって、ほぼ満員らしかった。
しかしバイクキャンプ用のサイトがあるようなのでそこに行くことに。
(空いてなかったら林道脇の渓流で野宿するつもりだった)

サイトに行ってみると、確かに狭い。
ソロテントとタープとバイクを置いたら埋まるほどだ。
自分はタープ無し派なので、特に広いスペースを必要としないが。

ヘリノックスの偽物チェアとテーブル、焚き火台を組み立て。
軍手と鉈を装備し、雑薪を取りに行く。
枯れた雑木を引っ張り出して、サイトで枝払いして薪を作っていく。
薪というより焚付だが。
(管理人としては片付けを客がやってくれるから一石二鳥?)

サイトからは木々の間から徳島の平野が垣間見える。
大鳴門橋までハッキリと見えた。
良い天気だ。素晴らしい。

私のソロキャンでは特にやることは無い。
とりあえず読書と昼寝をしていた。
そうこうしているうちに昼の3時ころとなり、チェックインを済ませた人たちが増えてにぎやかになってきた。

五月蝿いわけではないが人の声があると読書や瞑想に集中しにくいので、焚き火を始めることに。

焚付ばかりだが、こうやって燃やしていると下の方に炭化したものが増えて火が安定してくる。
乾燥した割薪が無い場合、とにかく燃やすのがコツなのだ。
無駄な消費だと思わずに。

火が安定してきたので、少し早いが飯を作ることに。
今日の晩御飯はピラフだ。
カットした野菜と米は自宅で既に飯盒に入れておいたので、水と調味料を入れて火にかけるだ。
調味料は固形コンソメと塩だけ。
飯盒を吊るすものを整備するのが面倒なので、焚き火台の中央に放り込んで炊飯。

あとは火の番をしながら待つだけ。
缶ビールと焼きマシュマロで暇を潰す。

そうして出来上がったのが焦げ焦げのピラフなのだ!

…焚き火台に放り込む方法は吊るす方法に比べて取り出しにくいので、炊飯具合のチェックを怠りがちですか?
食べてみると焦げの味もあるがまあまあいける。
でもやっぱり自宅で作ったり店で食べたほうが美味しいのは確かだが。

暗くなった後もひたすら焚き火。
やることは無い。
だから考え事をしていた。

私は学生の頃からキャンプをしていた。
だから好きだろうと思っていた。
だが、今は、それほどでもない、気がする。
旅費を抑えるための手段としてキャンプは素晴らしく、苦痛であっては元も子もないのでなるたけ快適にしようとしていた。
だけどキャンプ単体が好きかって言うと、微妙だ。
キャンプの醍醐味に火を見つめるとか野外で料理して食べること、とか挙げられるが、新鮮味を無くした今となってはそれ以外の快が見当たらない。
やったことがないことをやるのは良いが、ずっとそれだけやっていたいわけでもない。
大自然を味わいたいなら登山でもいいし、静かな環境で読書や瞑想したいなら近所の公園でも出来るわけで。

ソロキャンプの楽しさとは、今は分からない。

 

でも岳人の森そのものは良かったです。
自宅よりも温度調整が上手く出来ているシャワールームもあるし、水洗便所も整備されている。
順路が整備された植物園も良く出来ているし美しい。
これらを創業者がほとんど一人で整備したってのがすごい。
ホームページも作っているし、登山道だって作っている。
私なんかより遥かに心的エネルギーが高いのだろうな。

次の日、朝5時に自然に目を覚まし、夜明けを見に行く。

キャンプ場から東は山にあるので綺麗に日の出は見れないが、朝焼けは見られる。
夜明けや夕暮れは美しいものだが、毎日起こっていることなんだよな。
そういうのをじっくり見る機会が自然に出来るってのが、キャンプの醍醐味だろうか。