民俗学

あらすじと目次

本書は、生活学の先駆者として生涯を貫いた著者最晩年の貴重な話――
「塩の道」「日本人の食べもの」「暮らしの形と美」の3点を収録したもので、日本人の生きる姿を庶民の中に求めて村から村へと歩きつづけた著者の厖大なる見聞と体験が中心となっている。
日本文化の基層にあるものは一色でなく、いくつかの系譜を異にするものの複合と重なりであるという独自の史観が随所に読みとれ、宮本民俗学の体系を知る格好の手引書といえよう。

  • 1 塩の道  
     1.塩は神に祭られた例がない
     2.製塩法とその器具の移り変わり
     3.塩の生産量の増加に伴う暮らしの変化
     4.塩の道を歩いた牛の話
     5.塩を通して見られる生活の知恵
     6.塩の通る道は先に通ずる重要な道
  • 2 日本人と食べもの
     1.民衆の手から手へ広がっていった作物
     2.北方の文化を見直してみよう
     3.稲作技術の広がり方
     4.人間は食うためにだけ働いているのではない
     5.食糧を自給するためのいろいろなくふう
  • 3 暮らしの形と美
     1.環境に適応する生活のためのデザイン
     2.農具の使い方にみる日本人の性格
     3.直線を巧みに利用した家の建て方
     4.畳の発明で座る生活に
     5.軟質文化が日本人を器用にした
     6.生活を守る強さをもつ美

感想など

塩の生産と流通の歴史

人類にとって、塩は生きるために必要不可欠なものである。
しかし塩の歴史や民俗学の研究は(かつては)あまりなされておらず、あったとしても専売公社が関わるもので、一般向けの書物は少ないようだ。
そういう意味で、この本は価値があると思う。

塩の製造方法にも歴史があり、技術や流通の変化によって主たる方法は以下のように変遷している。

  1. 土器で海水を煮る、藻塩を焼く
  2. 古式入浜という、干潟のような場所で潮の満ち引きを利用して、塩分の濃い鹹水を得る方法。
  3. 古式入浜を石垣などで整備した、入浜塩田。
  4. 流下式枝条下、ホウキ状の構造物に海水をかけて蒸発しやすくする。
  5. イオン交換膜法、電気と膜によって海水から塩化ナトリウムを抽出する。

鹹水を煮る釜はかつては土器だったが、石窯と鉄釜になっていった。
鉄釜は生産効率が良いが、赤錆が混ざって白い塩にはならない。
良質の塩作りには、石窯(片麻岩)を使った。
釜の分布も、良質な鉄の取れやすさや石の取れやすさで変わっていた。

山の人間は塩を得るため、ほぼ必ず何らかの方法で海と関わっていた。
最初期は、川に木を流し、河口で回収して薪にして、塩を作って持ち帰った。
その後、多めに木を流して海岸の人に作ってもらった。流した木のいくらかは手間賃として渡していた。
江戸時代、瀬戸内海の塩が全国各地に船で流通するようになった。山の人が塩を買うための金は、薪や灰で賄った。

塩の陸上運送はもっぱら牛を使っていた。
山に塩を運び、山の生産物を平地や海に降ろしていたりしていた。
牛や馬で運べないところは、人の背(ボッカ)で運んだ。
荷の単価を上げるため、塩漬けした魚も運んだ。

塩は、明治38年の専売制が始まるまで、上記のように生産や流通は人々の需給に応じて有機的に変わっていった。

個人的に興味のあるところ、調べたい箇所

塩の帳面の例に、「阿波斎田塩」「周防平生塩」があったが、他にも「阿波平生斎田塩」「周防平生斎田塩」というものもあった。
意味の詳細は不明。
もう少し調べてみたい。

日本人と食べ物

食べ物の移入とその様子を考える。

サツマイモ、トウモロコシ、カボチャ、ジャガイモ、サトウキビは中世・近世に導入された重要作物である。
サツマイモは大名や代官が尽力して広めたなどの記録も残っているが、同じくエネルギー源として重要なトウモロコシが広がっていく様子はまちまちである。
旅行者が故郷に持ち帰ったなど、大々的に導入されたことは少ない。

かつてはクリを始めとする果殻類も大いに食べられ、その木も保護されていたようだ。
しかし、クリは線路の枕木とするため、明治以降は全国的に伐採されてかなり少なくなった。

サツマイモを生産していた場所(西日本の低地)は飢饉にも耐え、生活や経済が安定していった。
東日本は飢饉があったので、江戸時代ではなかなか人口が増えていかなかった。

…とまあ、雑多的に興味深い箇所を抽出してみたが、いかがなものだろう。
本書の三篇は宮本先生が晩年に行った講演を元にした本で、先生ならではの仮説も多く載っている。
先生よりも遥かに知識の少ない自分から見れば首をかしげるような仮説もあるが、それを間違いじゃないかと判断するのは、先生レベルの膨大な情報を得てからである。
今後も民俗学の本を読んで、先生の仮説に共感出来るようになったり、郷土史の研究の一助にしていきたいと思う。

民俗学

逝きし世の面影

あらすじと目次

昭和を問うなら開国を問え。そのためには開国以前の文明を問え……。幕末から明治に日本を訪れた、異邦人による訪日記を読破。日本近代が失ったものの意味を根本から問い直した超大作。

第1章 ある文明の幻影
第2章 陽気な人びと
第3章 簡素とゆたかさ
第4章 親和と礼節
第5章 尾雑多と充溢
第6章 労働と身体
第7章 自由と身分
第8章 裸体と性
第9章 女の位相
第10章 子どもの楽園
第11章 風景とコスモス
第12章 生類とコスモス
第13章 信仰と祭
第14章 心の垣根
あとがき
平凡社ライブラリー版 あとがき
解説 共感は理解の最良の方法である 平川祐弘

(平凡社より引用)

感想

外国人という「観察者の視点」を持つ人々

自国・我々の文化や文明を知りたい場合、実は当人が記録したものは使いづらいものである。
その理由は、私たちが知りたい多くのものは、彼らにとって「記録に値しない常識」であるから。

滅んだ古い日本文明の在りし日の姿を偲ぶには、私たちは異邦人の証言に頼らねばならない。
なぜなら、私たちの祖先があまりにも当然のこととして記述しなかったこと、いや記述以前に自覚すらしなかった自国の文明の特質が、文化人類学の定石通り、異邦人によって記録されているからである。
文化人類学はある文化に特有なコードは、その文化に属する人間によっては意識されにくく、従って記録されにくいことを教えている。

p18-19

そういう訳で、この本では外国の影響がまだ少なかった幕末の、開国直後に来日した欧米人の見聞録をまとめて、日本がまだ純粋に『日本』であった時代の模様を映し出そうとしている。
時代が進んで明治になれば、その知識人が江戸を語ることもあるだろう。
しかし、それもまたフィルターのかかったものである。
明治の日本人が語る江戸の日本も有用な情報であるが、欧米人の視点もまた非常に有用であるはずだ。

しかしこの「文化や文明の特質は異文化に生きる人びとの視点が必要である」というのは、歴史民俗学以外の分野でも活用できる考えだろう。
例えば、観光である。地元民なら分からない魅力が、異域の人なら分かることが多い。
住民が観光ガイドを企画するより、異文化の人間を招聘したほうが良いかもしれない。

開国・技術革新がもたらしうる苦難を知っていた

教科書などでは「欧米人が日本に開国を要求した」というのは知っているが、彼らの心情の全てまでは把握していなかった。
単に、「自国の利益」や「妄信的キリスト教精神の押し売り」から、独善的に日本を開国させたと思っていた。

だが、その考えは100%正しいというわけではないようだ。
欧米人もまた、産業革命以前は江戸時代の日本と同様、大企業や資本家が労働者から搾取せずに個人が個人で仕事を行っていたのである。
日本にやってきた欧米人の多数は進歩的な人々であったと思うが、それでも過去の牧歌的な自国の雰囲気を想起させられ、日本にノスタルジアを感じていた。

彼らが日本という異文化との遭遇において経験したのは、近代以前の人間の生活様式という普遍的な主題だった。
異文化とは実は異時間だったのである。

(欧米人の)彼らの眼には、初期工業化社会が生み出した都市のスラム街、そこでの悲惨な貧困と道徳的崩壊という対照が浮かんでいたのだ。

ひとは働かねばならぬときは自主的に働き、油を売りたいときはこれまた自主的に油を売ったのである。
(中略)(近代工業化以前の)19世紀初頭のヨーロッパにおいても、ひとは働きたいときに働き、休みたいときに休んだ。

p59,p132,p238

人々と機械が一か所に集まって効率的な生産を行うマニュファクチュア(工場制手工業・工場制機械工業)は、確かに大規模な生産を可能にした。
しかしそこで生まれたのは、急速に拡大していく貧富の差である。
以前から貴族と庶民の間に階級の格差はあれど、更に資本家と労働者の間に更に大きな格差が生まれていくようになった。
皆等しく貧しいよりも、全体的には豊かになっても格差が大きければ、人は貧しさを感じやすい。
その結果、治安や人心の悪化が起こる。

(通訳のヒュースケンの日記より)
「いまや私が愛しさを覚えはじめている国よ。
この進歩は本当にお前のための文明なのか。

この国の人々の質朴な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。
この国土の豊かさを見、至るところに満ちている子供たちの貧しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことが出来なかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪意を持ち込もうとしているように思われてならない」

p14

驚くことに、欧米人たちの中にはこの開国がもたらす変化の行く末を案じる人々がいたのである。
自国の歴史を少なからず批判的に客観視し、それを異国に当てはめ予測する能力、現代人の私から見ても全くもってその慧眼に感服する。
しかしどれだけ個人レベルで人々の幸福を案じようとも、政治的・技術的な革新を止めることは難しい。
この変化が不可逆的なものであることを既に知っているからこそ、今この瞬間の夢幻の様相を博物的に書き留めて後世に残そうとしていたのだ。

日本人は一種の鷹揚なニヒリストだった

この「逝きし世の面影」には、異邦人の視点を借りて、江戸の日本の雰囲気を味わうことが出来る。
個人的に印象に残ったものを以下に記す。

  • 日本人の生活は上は将軍から下は庶民まで質素でシンプルである。
    救いようのない貧困層がいない。
    (第3章 簡素とゆたかさ)
  • 幕藩権力は禁令を出していても、行き過ぎなければ慣習法を見逃し、民衆の自治意識に任せた。
    日本人の使用人は、自分が正しいと思ったことを行い、例え主人の命令でも背くことがあった。
    (第7章 自由と身分)
  • 性愛は恥じらうものでも隠すものでもなかった。
    (第8章 裸体と性)
  • 「愛は恋と無縁に、義務という束縛の形をとって育つ」
    (第9章 女の位相)
  • 世界的に見ても大都市だった江戸は市街部と郊外に連続性があり、「大きな村」だった。
    (第11章 風景とコスモス)
  • 上流階級は無神論者で、日頃寺社に参詣するのは貧乏人や女子供のみである。
    「日本では宗教は娯楽だ」
    しかし日本では儀礼の踏襲によって宗教的意識を持たせるもので、キリスト教ではプロテスタントよりロシア正教やカトリックに似ている。
    (第13章 信仰と祭)

全体的に過去の日本人というのは、プロテスタントのような厳格な人々と比べれば、不真面目で開放的で鷹揚で自己顕示欲が少ないようである。
子供だけでなく大人も凧揚げなどで精一杯遊ぶし、小物細工は妙に拘って自身の力を競い合うし、他人に怒ることは少ない。
人懐っこく献身的で警戒心が少なく、かえって図々しくも見える。

このように不真面目に見える日本人の態度には欧米人たちは困惑をしたことも多く、見下すこともあった。
しかしこの様相も、更にもっと俯瞰的に見れば、実はこの世の真理に近づいた結果なのかもしれない。

(オールコックが言うには)日本の社会にはすぐれてキリスト教的な要素である精神主義、「内面的で超人的な理想、彼岸への憧れおよび絶対的な美と幸福へのあの密かな衝動」が欠けており、同じく芸術にも「霊感・高尚な憧れ・絶対への躍動」が欠けているのである。

(東海道中膝栗毛について)要するにこの物語を貫いているのは、この世を真面目にとる奴は阿呆だという精神だろう。
この世も人間もたかが知れている。
(中略)それはニヒリズムと背中合わせの感覚であるだろう。

(大火事にあって)「日本人はいつに変わらぬ陽気さとのんきさを保っていた。
不幸に襲われたことをいつまでも嘆いて時間を無駄にしたりしなかった。
持ち物すべてを失ったにもかかわらずである。
日本人の性格中、異彩を保つのが、不幸や廃墟を前にして発揮される勇気と沈着である」
そういう日本人を『宿命論者』と呼んだ。

p570,p574,p507

日本国は地学的に災害が多いから、不慮の事故や死が欧米よりも身近にあり、その結果「上も下も同じである」「必死に努力しても、その成果はすぐに灰燼に帰す」「将来はどうなるか分からないから、今を楽しめ」という精神になった可能性はある。
現代的に言えば、当時の欧米人は『意識高い系』にも見えてしまう。

総評

この本は606ページの大作であり、しかも改行が少ないからほぼ全てのページに文字がびっしりと書いてあり、読み進めるのに時間がかかる。

また、個人的には少々、著者の意見がくどいと感じることもあった。
確かに欧米人たちや同時代を調べる別の研究者の無知な記述に批判を加えたい気持ちは分かる。
が、もう少し淡々と記述してくれたほうが、せっかちな自分としてはありがたい。

しかしほとんど知る機会の無い開国直後の欧米人の生の声を網羅的に知れる他の本は、ほとんどない。
文明開化によって技術・モノ・生活様式だけでなく人々の心までもが劇的に変化し、取り戻すことは出来なくなった。
そんな失われた『逝きし世』たる過去の日本の、その雰囲気を少しでも味わうことが出来る貴重な一冊だったと思う。

民俗学

川の道 宮本常一

1975年に、民俗学者「宮本常一」によって書かれた本、『川の道』を読み終わりました。
図書館で借りて自宅で読みました。
読んだのは2009年に刊行された新版です。

「旅の民俗と歴史」シリーズの9冊目となる本で、川がまだ交通手段として使われていた昔の、日本人と川の関係について書かれています。

内容

川は日本人にどのようなかかわりあいをもっていたか。田畑をうるおし、飲料水を供給し、交通路になり、また魚介をわれわれに提供し、海岸地方の文化が山奥深くへ、山間の物資が海岸地方へ……川は漁労や治水にのみならず、人や物資交流の道として、山と海を結ぶ重要な役割を果していた。
日本の主な河川37をとりあげて、それらの川の果たしてきた人間とのかかわりあいの歴史を綴る。 

(八坂書房ウェブサイトより)

感想など

川は道であった。

巨大なダムが流れをせき止め、川筋に鉄の塊が往来する現代日本において、川が道であったことを実感することは難しい。
しかし人力と自然の力だけだった明治前は、川は物流に深く関係した。

人力で道を作り、そこを徒歩や牛馬で往来するのは多大な労力がかかる。
しかし川を使えば道の整備はほとんど必要無くなり、水深によるが重い物や大量の物を一気に運ぶことも出来る。
言ってみれば、川とは自然に出来た街道である。

ダムや鉄道が出来る前は、川を使って多くの物が上流と下流を行き来した。
上流からは、農産物、丸太や木炭などの林産物、重くて嵩張る素材が多く流れた。
対して下流からは、塩、各種の道具、肥料(金肥や干鰯)など、海や街で作られた軽くて価値のあるものが運ばれた。

川はもちろん上流から下流へ流れる。
では下流から上流へ行くにはどうすれば良いか?
今ではあまり想像できないが、何と「曳綱」で曳いて上っていたようだ。
そのため下へ流れるより、上に上っていくほうが何倍も時間と労力がかかり、川男たちは川筋の町で宿泊しながら上流へ戻っていたようだ。

物流を担う川男たちは運んだ量によって得られる金が変わるが、その時代においては比較的稼げる仕事だったようだ。
筑豊では石炭の物流を川船が担っていた時代もあったが、そこで働く男たちはなかなか粗暴で、現代で言えばトラック運転手をイメージすると合うかもしれない。

そう言えばこの筑豊の石炭であるが、中世から燃料として使われていたようで、江戸時代には瀬戸内海沿岸の塩田地帯で製塩燃料として使われるようになったらしい。
元塩田地帯で生まれ育った身としては、なかなか興味深い記述だ。
塩づくりには大量の燃料が必要になるが、郷土の塩づくりの燃料についての研究の一助になりそうな事実である。

最後に、印象に残ったのは冒頭にあった以下の文章。

川筋を伝って文化が奥地へはいってゆくというのは、そこを人が通って奥地へはいっていったと言っていい。
いろいろの困難を克服しながら、人びとは自分たちの夢を拡大し、また可能性の限界をためしてみるために、その生活領域を拡大していった。
もともと人間はより住み易い地を求めていったものが多いのであろうが、それとは別に、そこに人が住めるということになると、どのように条件が悪くてもそれを克服してそこに住むことを辞さなかった。
世界のすみずみにまで人が住んだのはそのためであった。
日本についてみても、どんな山の奥にも、地の果てにも、また沖の小島にも人は住みついている。

p12

「こんな山奥になぜ人々が住んでいるのか」ということを考える時、川と物流を必ず考慮せねばならない。
物流が良く、広くて使いやすい土地で、経済的なものを産出出来るなら、自ずと人が住んでいく…

と思いきや、日本を隅々まで歩いた宮本常一先生が言うには、人がそこに住む理由はそれだけじゃないらしい。
冒険心こそが、辺鄙な場所にまで人類を運んだ。
手付かずの大自然を前に、挑んでいった先人たちの想いを、私は知りたい。