日記,心理

仕事は、11月末で異動があって環境が変わっており、少し忙しくなった。
のは良いのだが、人間関係で「ん?」と思うことはある。
以前の職場は事務系の中年の男ばっかりだったけど、優しい人ばかりで居心地は非常に良かった。
男なのに上下関係を厳しくしない人って、もしかしたら一番良いタイプなのかも。

とは言え、今の職場も別に上下関係が厳しいわけではない。
しかし女性が多いからか、何となくやっぱり事務系の男性とはなんか違う思考回路をしており、それがたまに疲れる。
悪い意味でいい加減、悪い意味で細かいというか、注力するべきところが男と女で違う気がするのだ。

さて今日、本当にしょうもないことだとは思うけど、久しぶりに命令に抗うか、不満を抑えて命令を聞くかの判断に迷うことがあった。
小さなしょうもない書類を集めるのだが、本当にいつでも出来ることなんだから次の機会に一気に集めようと思っていたのだが、ヒステリックに「指示通りに集めろ!」という指示が飛んできた。
その書類を集める理由や時期を、自習した自分よりもよく分かってもいない。
「これって、こうですよね?」と聞いても「えっ?そうなの?」とよく分かっていないし、指示を修正もしない。
今の状況・時期で集めるだなんて効率が悪い、1,2ヶ月先のことすら効率化させようとしないのか、とも考える。
だからそういうことを全て言おう、と思ったのだが同時に、自分は勤務1ヶ月の人間であるとも考える。
結局、不満を持ちながら指示を得て、やる気なく集める作業に出た。
そうして今、その不満をここで打ち明けているのだ。

しかし怒りの感情をこちらも少し顕にしながら少ない反論をした時、同時に「あっ、今の自分にコダワリってあるんだ」と感慨を覚えた。
うつ病、統合失調症陰性症状患者のように、「拘りも生きる気力も何もないんだ」と日頃素気なく生きているわけだが、その拘りを感じることでかつてのエネルギーの源泉を感じもした。
そう言えば、1人で山に登りだしたのも、「あいつらとつるまなくたって、1人で山に登れるんだ!」という反骨心もあった。
そうか、僕には反骨心があった。
それを過ちだとは思わないで。過ぎ去りし日の自分はそれを運動する糧にしていたことが、確かにあったんだ。

日記

年末年始は1週間近く公休になってるので、旅行に行くことにした。
去年同様、レンタカーで登山旅行だけど。

今回は九州行ってみるのだ。
年末年始でも九州なら豪雪にはならないはず!
あと、九州を制覇すれば西日本の300名山踏破出来るし。

クリスマスにもなっている週末は道具を整え、すぐに出発できるように用意する。
28日に仕事を終えたらすぐに車を借りて、積み込みを終え、次の日の3時に起きて出発するのだ。
年末年始は国交省が休暇の分散を考えて高速道路の料金割引なし。
深夜割引を使うべく、早朝出発。
九四フェリーは予約が埋まっていて、夜くらいしか空いてない。

最近は無理して旅行に行くことなくて、記念日だったり大型連休の時に条件が合えば行くくらいだ。
好奇心とか冒険心とかはやっぱり学生の頃に比べたら減ったよなあ、と思う。
300名山踏破する、って目標が無かったら、ダラダラと連休を過ごしていただろう。
ゲームと読書だけ。
だって今は強烈にやりたいこととか本能的な衝動が無いもの。

そう言えばたまに焼酎を飲んでるんだが、以前のようなほろ酔いによる多幸感が90%ほど減った気がする。
酔いが足りないのかと思って飲み続けると、苦しくなるだけだ。
もしかして本当に、生理的に多幸感の感受性が減ったのだろうか。
最近はその研究くらいが、自分の知りたいことになっている。

日記

12月20日は誕生日なのだ。
この日で32歳。
2の5乗でキリが良いな!

その前日の19日は休日だったので、淡路島一周していた。
寒気がやってきていたので面倒くさーとか思ってたけど、朝起きると風が少なかったのでやっぱり行った。
でも日が昇るにつれて強風になって過ごしにくくなったけど…

いつも東海岸→西海岸のルートだったけど、毎回同じでは芸が無いので、西海岸からスタート。
交通量は少なく、走りやすい道なので淡々と走っていける。
昔は道沿いの人々の生活を想っていた。今も、旅する民俗学者の記述を参考に生活を思い描いている。
そこに生きる人、もしそこに自分が生きたとしたら。
そして今ここに生きている私も、誰かのモデルになり得るものだとも思ったり。

寒いので早々に温泉を目指す。
明石海峡を望む松帆の浦の温泉に入る。
冷えた身体で入る温泉は最高だ。冬の唯一の楽しみと言っても良い。
その後、東海岸を下っていく。
淡路島で古刹の寺に行ってみたり、最後にうずの丘大鳴門橋記念館で玉ねぎバーガーを食べたり。
冬至近くに生まれた私の誕生日は、毎年このように柔らかな日差しと共にある。

誕生日当日は洋菓子店でケーキを買って食べた。
こんな時くらい、良いよね。
洋菓子店の人たちも、記念日を迎える人たちを毎日のように迎え入れているのだろう。
半ば他人を祝うためのような仕事、って考えたら感慨深いものがある。

日記

自分の人生で初めてオタク的にはまったのは、魔法陣グルグルだった。
連載当初からずっと追い続けて、ではなくて中断期間があったんだけど、中学生の頃にふと思い出して最終巻まで買った。
その時にエンディングにすごく感動して。
あのエンディングも今の私と同じように、過ぎ去りし日々をかけがえのない大切なものだと捉えるようなものだったんだけど。

親からもらった古いパソコンがあったからネットを自由にできた。
その時に2chにも出会って匿名掲示板やらお絵かきファンサイトやら同人やらを知ることも出来た。
サブカル的な趣味はその時に始まったと言って良い。

最近の私は自分の感情、特に好意や多幸感や愛といったものについて注目している。
過去のあの時の私は、今思えば確かに好意のような感情があった。
強烈に動く心があった、と思う。
だからあの時の心に戻ることをすれば、今の私にも愛が戻るのではないかとも思う。
また、あの頃の自分の心を思い出すと、あの時の幸せも蘇ってくる。

で、今こんなことを思い出しているのは、某掲示板でたまたまグルグルの旧OP,EDが貼られていたからだ。
音楽や絵の視聴で、様々なものが想起され、心は穏やかになってゆく。
私の人生に、これは、今でも影響しているし、もしかしたらたまたま出会ったこんなものが人生最後まで影響するんじゃないか、とふわりとした想像が物語性を更に感じさせてくれる。

そりゃあの時はこんなおっさんになっても懐かしくそれを思い出すことになるだろうなんて思いもしなかった。
何が将来の自分の幸せになるかなんて分からない。
だけど、今の好きを追いかけるのは、間違いじゃなかったんだ。

心理,日記

合理主義な人間は感情を重視しない冷徹、と言われる。
では合理主義当人は感情が多いのか、少ないのか。
基本的には少ないほうだと思う。
というより、感情が少ない人間ほど「理」と呼ばれるものを代わりに価値観にするが故に、合理主義となるのではないだろうか?
合理主義でいれば感情が少なくなっていくのか、感情が少ないから合理主義となるのか。
一考の価値はあると思う。

さて私は合理主義で感情が少ない人間…だと思う。
だけどこうやって連日自分の感情の無さを考えるってことは、感情に対して価値を認めていることではないだろうか。
大事でも何でも無いと思っていることに、意識することは少ないだろう。
そういうわけで自意識としては、感情に重きを置いているが、その無さに悲しんでいる、といったところか。
そうやって悲しんでいることすら、疑問に思っていることも、感情ではある。

では今の私に何が足りないのか。
一応、感情というものはあるにはあるが、その中の一部が足りないのではないか。
おそらく、多幸感などと称されるものなのではないか。
多幸感は色々な行動や考えによってもたらされる。
寒い日に入る温泉だったり、空腹の時に食べる食べ物だったり、愛する人と一緒にいるときとかもあるらしい。
他には、薬、酒、タバコなどの化学物質を脳に作用させることでも多幸感は生まれる。

もしかしたら、人の幸せとは多幸感と呼ばれる脳内物質以外に存在しないのではないか、とも思うのだ。
どういう時に多幸感を生み出す物質を分泌するかによって人の性格や行動は決定され、環境や繁殖(連続性)に適応するものが生き残り、連続してゆく。
今の快楽ばかりを追いかけるのも、未来のことを考えるより多幸感があるから。
未来のことばかり考えるのも、今の感覚よりそういうことを考えるほうが多幸感があるから。
そういう「何となく、気持ちの良い」感覚に支配されているのではないかと。
そして、良いタイミングで多幸感を生み出すマイクロチップを脳内に埋め込めば、自分にとっても他人にとっても、思いのままに出来るのではないか、と。

日記

数カ月間、無料の郷土史の講義を聞いていて、今日が最終日だった。

参加者は定年を迎えた60代以上がほとんどで、自分のような30代辺りは皆無。
場違いっぽいが、参加者同士での交流はしないといけないわけではないので問題は無い。

さて内容としては、まあ図書館で郷土史資料漁るようなレベルか。
本を読むのではなくパワーポイントと耳で聞かせてくれるから普通の読書よりかは記憶に残るんだろうけど、その講義の場所まで行き来したり週末に別の予定を入れづらいというのがデメリットか。
全く知らなかった内容というのもあまり無く、想定の範囲内でもあったし。

とは言えこういう郷土史講義に参加する自分を客観的に見て、この町を更に知ろうとする住民らしい行動ではあると思う。
何も知らなければ感慨とか物語とかも知らず、なんの変哲のないただの場所としか捉えない。
日頃見ている風景に物語があって、理由があって、そういうのを感じながら生きていくのって、寂しくないじゃないか。
死ねば全てが無に帰す。忘れれば全てが無に帰す。独我論としてはそうなんだけど、でも何かが残るような、そういうのが少し頑張れる心の支えにもなったりする気がするのです。

お金

家計簿

独身アパート暮らし、30代の男の家計簿を載せます。

11月からは異動により職場環境が変わるというイベントがあり。

収支内訳

収入 228,029円
給与収入(手取り) 216,853円
資産運用益 22円
ネット収入 11,154円
雑収入 0円
   
支出 123,853円
食費 14,105円
雑貨費 8,376円
車両交通費 51,689円
医療費 5,310円
保険 0円
服飾費 599円
交際費 0円
娯楽費 15,900円
通信費 2,094円
雑費 3,327円
家賃 22,445円
   
当期純利益 104,194円

収入と仕事について

11月の終わり頃に異動があって、技術系事務職から事務職らしい事務職となりました。
収入は変わらないですが、当初は11月で契約終了だったのが異動により3月末まで延長。
4月からの仕事は決まっているから数ヶ月ニートするのも良いかもですが、今の自分がニートしたって、孤独な引きこもりにしかならない気がする…。
というわけでリハビリや暇つぶしとかそういう意味で、仕事を続けています。

仕事の環境が大きく変わったし人間も変わったので、少し戸惑いはあります。
合わない所も前の環境と比べたらありそうな気もするけど、仕事量は多いのでやりがいがあるとも言えるし…
まだ様子見ですね。

支出について

11月初め頃に有給消化も兼ねて旅行に行っていましたが、おかげで交通費が高くなっています。
でもETC休日割引が11月に入って復活したので、お得な旅行が出来たと言えば出来たと言える。
他には6年乗って一度もいじっていなかったバイクのエアクリーナーを交換してみたり。

他にはお得なポイントを一気に購入してみたり。
計算が面倒なので前払方式で計上しており、実際はもうちょい娯楽費は少なめ。

毎月耳鼻科でシダキュアをもらっていますが、今月は歯医者にも行っていました。
もう2年ほど行っておらず、虫歯の出来やすい柔らかい歯質なので新たな虫歯が出来ているかも!と思って。
行ってみたら、虫歯そのものは無く。昔治療した歯の根本に少し異常が見られるだけ。
歯石取りなどもやってもらいました。
最近、マスクつけっぱなしだからなのか自分の口臭が気になっており、その軽減もいくらか出来た、かな?

11月の生活について

11月は異動のための片付け、新たな職場への慣れ、技術士1次試験、旅行と、まあまあの密度の生活です。
しかし忙しいわけではなく、日々を淡々と過ごすことが出来ました。

そう言えば、性格診断から始まった人間の心理や生理学的違いへの興味については、ずっと頭の中にあります。
私にしてはこのような真面目な課題に対してここまで長く考えるのは珍しいのです。
twitterなどを見ると時折「一度鬱病になると二度と戻らない」という記述に出会うことがありますが、この現象を生理学的に説明できないものだろうか。
生理学的な原因が分かれば、失われた多幸感とか感受性だとかを、取り戻す方法も分かるんじゃないだろうか。
そう思うのです。
元々ないものをあるものだと思い込むから苦しむ、ってのは仏教的ですが、しかし私は科学的な考えも好きなのです。
最近はそういうものをぼんやりと考えています。