心理,日記

夏休みということで一週間旅立つことにした。
例年、お盆の人混みを避けるためこうやって少しずらして夏休みをとっている。

1人で登山に行くわけだが、昔はこういう少し死に近づくような刺激的なことをすることで、自分の命を無下に扱うような感覚に酔っていたような気がする。
「まだまだ価値のある長い人生を、こうやって簡単に捨てようとしているところが、最高にロックンロールだろ?」と。

だが今はその気持ちもかなり薄らいでいる。
死の危険の程度は今も昔も変わらない。
というか今のほうが身体がなまっている分高まっているんだけど、命に価値があることを前提とした覚悟は無い。
何だかんだ出発してしまうと、爽快感を気楽に楽しめるんだけれどね。

若いのにやる、危険なのにやる、そういう他者からの軽薄な目線で自分をキャラ付けていた。
そういう自意識過剰が今は和らいできたというのにやるってことは、さてどういうことだろう。
昔からの習慣か、はたまた、好きだからか。


そう考えると、『キャラ付け』って面白い概念だと思わないか。

キャラ付けは自分や他者を縛って自由を制限する面もあれば、「自分は~なのだから!」と発奮する材料にもなる。
以前からハマっているMBTI(16personality)なんてキャラ付けの最たるもので、「自分はINTJだから他者と上手くいかなくて普通なんだ」と思え、救われるところもある。
精神疾患も同じだな。ADHDだから、ASDだから、LDだから、うつ病だから、HSPだから、ボーダーだから、サイコパスだから。

私に信念はありません。だからキャラ付けしてください。
この世や私をそういうものだとおっしゃってください。
その行く末は、『救い』という言葉と意味になるのでしょうか?

日記

昔から祭りの類はそこまで興味無かったけど、気軽に非日常のイベントを味わおうとして、見に行くくらいはするようになった。
もちろん1人で。

子供の頃は花火の衝撃ですぐにお腹が痛くなっていたけど、身体が大きくなったからか脂肪が溜まったのかは知らんが耐えられるようになった。
むしろこの衝撃が、自分が現地にいること、ライブ感ってやつ?を感じさせてくれる。
テレビなんかじゃあ表現できないものね。
花火大会は地方のものだったけど、この地域にこれだけの若者がいたのか、って驚くくらい若者たちも来ていた。
おじさん、若い子たちのエネルギッシュなところを見ていたらこっちも滾ってきちゃうよ!


徳島市の阿波踊りを見に行ったのは実は今年が初めてで、いつも人混みがひどくて敬遠していた。
でも今回はコロナで3年ぶり、規模縮小というわけで行ってみることにした。
単に他にやることがなかっただけ、ってのもあるんだけど。

徳島県最大のイベント、というわけで県内全体で演出している雰囲気が確かにあって、汽車で徳島駅へ向かう途中でもアナウンスは阿波踊り仕様だし、浴衣姿の人々も多く見かけた。
徳島駅なんてまさに阿波踊りで一色だ。
駅から会場は近く、その途上にも露天は多い。
少し早めに着いたのでついでにアミコで紀伊国屋書店でフラフラ物色。

阿波踊りは基本的に有料演舞場と無料演舞場があるんだけど、特に予約も何もしていないし拘りも無いので、最初は両国橋の無料演舞場へ。
ああ、このライブ感、というよりフローってやつ?演者が演じ、観客がそれに共感して、何だか一種の儀式のような恍惚感。
これが祭りってやつなのか。今更それを肌で感じて気づいた気がする。
つまりこれは、「酔い」である。祭りとは、共感を利用した酩酊状態へ至る場だ。

とは言え共感力が死んでいる陰キャの自分は、始まって2時間で疲労感が出てきた。
演舞が完全に終わる前に帰途に着いた。

日記

適当、ここでは適したという意味ではなくて「大雑把」という意味である。

変なルートで自分の婚活欲が再燃してきた。
いやあの、らおん先生の婚活漫画で……
先生は反面教師として優れているし、徹底的に無自覚なゲスな自分を描写しているからかその対照的に女性が魅力的に見えてきた。
あんなんでもいけるなら自分でもいけるんじゃないか?と思えてしまうので。

確かに自分には弱い力だが確実に、結婚欲が居続けている。
一生独身が良いだなんて心の奥底から決断出来るわけではない。
でも、行動に繋がるわけでもない。

婚活するならどの方法が良いだろう。
ガツガツといかないといけない方法は向いてないだろう。
結婚欲があっても面倒臭さが優れば面倒くさくなるだけだ。
いくつかの方法をつまみ食いしてきたが、とりあえずやったことのない方法を取ってみよう。
例えば、結婚相談所。
他の方法よりも金がかかるが、今のところ金を使うあても無いし、まあ別に良いかと思える。
結婚相談所は他の方法より結婚へのやる気が高い女性が集まるようで、ダラダラと続けたいわけじゃないならいい方法かもしれない。

でも、結婚相談所にいる女性ってどんな感じなんだろう。
個人的に、細かい事を押し付けてくる人や普通・常識に拘る人、度胸が無さすぎる人は嫌いだ。
ってそれ、今の職場の典型的なタイプじゃん。そう考えたら職場結婚の見込みも無い。

どっちかってーと適当な女性が好きだ。
出来るなら、意気消沈している自分に人生は面白いと思わせてくれるような。
そんなの、あの世くらいしかいないか。

日記

毎年思うことなんだけど、真夏の休日の過ごし方は悩む。
長期休暇が取れたら登山&キャンプツーリングと、高山縦走とか海外旅行が最適なんだけど、週末レベルの休日は悩む。

あっついから生半可な標高の登山だと不快だし、平地の散歩なんてなおさら。
黎明の時間くらいならまだ運動も出来るけど、時間は限られている。
風が吹く海に行くのも良いけど、釣りはやはり暑いし、海水浴はちとハードル高い(シーズンに1回くらいなら1人でも行く)。

では室内で遊ぼう、と思っても、う~ん、どこに行けば良いんだ。
定番は漫画喫茶、ショッピングモール、博物館、図書館。
それらはかなり行ってるから、いい加減別のところも開拓したいと思うが、生来の陰キャには思いつかん。
ネットや雑誌で一応探してはいるものの。
ちなみにジモティー、こくちーず、「○○ イベント」で検索してイベントも探してるけど、コロナで中止が多く……

そんな訳で、23日は涼しい図書館でのんびりと読書。
1席だけ寝ながら読書出来るところあって、自分の定位置となっている。
昼から行くとどうもすぐに眠たくなってね。本を片手に昼寝して、また再開して。

24日は徳島の夫婦池に読書デイキャンプしてきた。
国道沿いにあるけど標高は1400m。
アクセス良くて爽やかなので行ってきた。

超身軽デイキャンということで、アウトドアチェア、テーブル、保温ボトル、カップラーメンと手挽きコーヒーを持参。
誰もいない雄池の湖畔を巡り、良い場所を発見したらそそくさと組み立て、椅子に座って読書。
たまにハエがいるが、蚊はいないので静かなものだ。
剣山へ向かう休日の車もいくらか通るしその音も聞こえるが、静かなほうだ。
こんなアクセスの良いところ、都市近郊なら人ですぐにいっぱいになるだろう。

陽射しが変わったら影に移動。
ゆるデイキャンだと移動がしやすくて良い。
タープ張るの面倒なのだ。

朝に沸かしたお湯はモンベルの保温ボトルに入れておくと昼でも熱々で、カップラーメンも簡単に出来た。
ダイソーで買ったコーヒーメーカーで挽きたてコーヒーも。
結局朝8時から15時まで、読書とネットだけで暇を潰せていた。
直射日光に当たらなければ昼過ぎでも涼しく、朝なんて服1枚じゃあ寒いほどだった。
やっぱり真夏の高地ってええねえ。

帰りはどんどん標高を下げていくが、平地に来るともう暑すぎ。
メッシュジャケット着ているが、自分の汗の気化熱で何とか生きていける程度の暑さだ。

そんなこんなで読書三昧の2日間。
まあそれなりに良かったが、もうちょい真夏遊びの開拓もしてみたいところ。

日記

6月だというのに真夏の気温、そして再来する梅雨のような雨模様。
近所の登山も辛くなる気象なので、休日は部屋に引きこもるか図書館で読書するかくらいになった。

最近はまたもやゲームをしていて、今は「Library Of Ruina」をプレイしている。
ルールの分からない最初は期待ほど面白くないと思っていたら、だんだんとハマってきた。
朝起きたら日課をこなし、終わったら疲れるまでプレイして、疲れたら昼寝して、またプレイして。
まあ何とも自堕落な、ダメ学生のような生活である。

「こんなんで良いのか」
と少し悩んだら散歩に出かける。ちょうど夕暮れの、運動するのには良い時間帯だ。
いつものコースを歩く。
雨の合間の立体的な雲と、その切れ間を微かに照らす陽が、更に空を神秘的に演出してくれる。

「こんなんで良いのか」なんて思うのは、没入感を遮る感覚だ。
結局のところ、やりたいことなんて、やっていることややるなと言われてもやってしまうことだ。
やりたいことをやって幸せな人生を送りたい、だなんて思っているのなら、無駄に「今のままで良いのか」なんて思うことはあまり良い思考ではないんじゃないか。
「今のままで良いのか」と気づいたり自己批判したりしたところで、本当にそれは私を幸福へといざなっていただけるのでしょうか?

夢中になれることを追求するしかないのでしょう。
その時々において。

日記

狭い業界の、更に狭い資格試験について勉強をしている。
この資格を取れば昇給が約束されており、筆記試験の類については拒否感の少ない自分はすぐに飛びついた。

過去問をメインにして勉強しているが、何だかイライラすることが多い。
何というか、問題製作者はレベルが低いんじゃないかと思える。
重箱の隅をつつくような日本語の違いや、年が変わればすぐに変わりそうな数値を答えさせ、その数値も3割・6割・9割とかの幅なら良いんだが3割・4割・5割といった微妙なものばかり。
それに研究成果によって数値や定義が異なるものを問題にしていることもあり。
つまり客観的に正しい答えではなく、貴方の意見に沿う答えを用意しろってことですか?
と、ムカムカしながら勉強している。
稀に良問があるが、そういう良問なら本当に勉強になるから良いんだ。
でもそれ以外については「こんなもん、無意味だ」と思えて集中力も失う。

昔はもう少し試験に対して素直だった気がするが、その原因はこの試験が悪いのか、自分が変わっただろうか。
昔の自分のほうが集中力があった、気がする。
なぜあんな意味を感じないことに対して勉強できていたのだろう。
そりゃ数学はパズル的な面白さがあるし、順位を上げるのは爽快だと感じたこともある。
でもゲームやその他の趣味の面白さに比べたら、勉強のほうがつまらないだろう。
でもつまらないことをやれていた。それはなぜだろう。

昔の自分は、この勉強が将来の役に立つからと思っていたからだろうか。
つまらないが、やるべきことである、将来の楽のために今は苦しんで良いと思った。
だけど今は、子供の頃に思い描いていた将来の真っ只中だ。
自分の幸福を無責任に他人や未来に委ねられないくらいに大人になった。
懐疑的に物事を見ることを覚え、取捨選択も容赦なく行えるようになった。

絶対的に正しい、だなんて思えることはもうない。

日記

梅雨の蒸し暑く天気予報も当てにならない今日このごろ、日記を書くのも久しぶりになるほどのテンション低め安定。
ゲームを続けていたり仕事を普通にしていたりで、まあ30代独身男らしい。
思いつきで色々と暇を潰しているけれど、まだ細々と他人との付き合いというかもし理想的なパートナーがいるとしたらなんだろうかと想像していたりもする。
中学生か。

独身率がかなり高くなってきただの20代でもなお恋人がいない人が多数派になってきているだの、自分が多数派になりつつある。
パートナーなんて、世界を救うくらいファンタジーな存在なのかね?

来月大阪行くことになるから、なんか適当に生きづらい系人間が集まるところだのメンヘラがいるところだのに行って破滅的な冒険でもしてみようかね。

日記

最近平日も休日も表題のゲームを一気にプレイしているので日記等も書かずPC作業も読書もせず。
ダンジョン探索型RPGなんだけど、結構面白いね。
やめどきが分からなくて「あともう少し……」とやってたらすぐに就寝時間だ。
ゲームって本当、時間泥棒だ。

さて最近の生活はといえば、休日は登山ガイドやウォーキングガイドに載っているコースを歩いたりするだけで、それ以外は変わらない生活をしている。
でもなあやっぱり同世代くらいの人と同じことをしてみたいなともチラと思うんだけど、1人で遊ぶのに比べると遥かに気合が必要だから少し方法を調べるだけで疲れて中断する。
少し前にやってた婚活とかもそうなんだけど、内向的でネットに慣れ親しんできた人物には、本音にたどり着くまでの表面的な付き合いが非常に面倒くさいと思うのだ。
ネットみたいに本音から関係が始まって、表面的なことは後から判明するという流れが良いよね。
やはりオフ会みたいなもののほうが良いのだろうか。
しかし例えば匿名掲示板にいる人と関わってみたいと思うならばどうすれば良いだろう。
結局面倒くさいことを頑張ってやらないといけないのだよね。
もっと気楽に出来るようなシステムでもあれば良いんだけど。
もしそういうシステムを作るとしたらどういう仕様が良いだろう。

なんてことをつらつら考える日常です。

日記

今日はブックオフに行っていた。
ふと思ったのだが、こんなにも多くの漫画や小説が存在するのって、ただ「今までにないものを作る」という理由だけではないのだろう。

「人々は、思いを発したい、発散したい」

似たりよったりの作品は多く存在するから読者から見れば作品に大した意味を見いだせないこともある。
しかし、その作品の存在意義そのものを否定するのは違う、やってはいけない。
例え既に他の人が同じ気持ちで作ったものがあるだろう。だからといってそれだけで発したい気持ちなどが無くなるわけではない。
何かを作りたい、この思いをぶつけたい、そういう思いが有象無象の作品であっても存在する。

昔は「ケータイ小説」を馬鹿にしていたが、思いの発露ってことを考えたら「非常に良いものだ」と思える。
作品づくりには市場目線も必要になることがあるだろう。
だが、市場目線は作品の修正に使うだけで、原動力はやはり個人の思いだ。
これからはただだ作者を「与えるもの」としてではなく「同じ人間」として見てみよう。そうすると更に作品たちを愛せる気がするのだ。

日記

大きな組織で働いて約2ヶ月、雰囲気も分かってきた気がする。
同調性と学習性無力感、この2つがキーワードだと思う。

ジョブローテーションによる異動が多く、そのためにマニュアルや要領も細かに定まっている。
なかなか職員1人の裁量というものを発揮するチャンスは無く、既に無駄だと思えるほど多くの決裁や連絡調整がある。
と言っても職員レベルのマニュアルを全く作ってくれておらず、心のなかではキレながら色々と周りに聞いている。
……後から後から言われるのはムカムカするのだ。最初に全部言うかマニュアル整えておけよ!と。
自律型人間である自分は恐らく、このようなコミュニケーションを密とすること前提で誰もが責任を回避するような風潮について今後もストレスを溜めることになるだろう。
いつか全部ぶっ壊してやる、そんな野望や希望を抱きながら、隙を見つけるまで観察していくか……

同調性が非常に重視されるので、それから派生していく学習性無力感も多い職場だろう。
終わった終わったと思ったら細かすぎることを修正させられる。そんなことを繰り返すと常に仕事に対して未完成感が生まれ、達成感も感じにくい。
また、色々と努力しても2年ほどでまた別の職場へ異動していく。
だから今この時だけをやり過ごせば良いと思っている人らも多く、変えてやろうとする気概は見られない。
頑張っても失敗したらその責任だけ負わされるからね。報いは異動したらすぐに感じられなくなるからね。

まあこういう風潮はこの職場だけのものだというわけでもない。
「大企業病」という言葉がある通り、大きな組織はこのような面を持つ。
そんな中で裁量性を持って楽しくやっていくにはどうすれば良いだろう。
裁量性は良いものだと思うんだけどな。
ほんの4ヶ月しかいなかった前の職場ですら、私のエクセル等の技術を発揮できていた。
今はしょうもない書類のレイアウトを整えるのに勤しんでいる。
ほとんど誰も見ないで5年保存されて捨てられる書類を整えるのに、何の意味がある?
その時間や手間でもっと有意義なことがやれるのでは?

徒労感も多い職場だ。
せめて、プライベートくらいではテキトウで裁量的なことをやろうか。