2022.08.20 昔は死を覚悟していた旅だった……

夏休みということで一週間旅立つことにした。
例年、お盆の人混みを避けるためこうやって少しずらして夏休みをとっている。

1人で登山に行くわけだが、昔はこういう少し死に近づくような刺激的なことをすることで、自分の命を無下に扱うような感覚に酔っていたような気がする。
「まだまだ価値のある長い人生を、こうやって簡単に捨てようとしているところが、最高にロックンロールだろ?」と。

だが今はその気持ちもかなり薄らいでいる。
死の危険の程度は今も昔も変わらない。
というか今のほうが身体がなまっている分高まっているんだけど、命に価値があることを前提とした覚悟は無い。
何だかんだ出発してしまうと、爽快感を気楽に楽しめるんだけれどね。

若いのにやる、危険なのにやる、そういう他者からの軽薄な目線で自分をキャラ付けていた。
そういう自意識過剰が今は和らいできたというのにやるってことは、さてどういうことだろう。
昔からの習慣か、はたまた、好きだからか。


そう考えると、『キャラ付け』って面白い概念だと思わないか。

キャラ付けは自分や他者を縛って自由を制限する面もあれば、「自分は~なのだから!」と発奮する材料にもなる。
以前からハマっているMBTI(16personality)なんてキャラ付けの最たるもので、「自分はINTJだから他者と上手くいかなくて普通なんだ」と思え、救われるところもある。
精神疾患も同じだな。ADHDだから、ASDだから、LDだから、うつ病だから、HSPだから、ボーダーだから、サイコパスだから。

私に信念はありません。だからキャラ付けしてください。
この世や私をそういうものだとおっしゃってください。
その行く末は、『救い』という言葉と意味になるのでしょうか?

日記,心理

Posted by YU