2021.08.10 美しき思い出はメタ認知が生み出す
しばらく日記が空いた。
祖父のアパート掃除で出てきたダイヤを売った。
売り先によって数万円の違いがすぐに出るだろうから色々と方法や評価について勉強していた。
いろいろな宝石店を回って査定してもらうのは面倒なので、相見積もりしてくれるサイトに依頼してみた。
すると、訪問査定の選択肢しかなかった。
とりあえず1社目査定してもらう。
その人は神奈川から飛行機でやってきて、レンタカーで四国を回っているようだった。
買い取れるかどうかもわからないのにそれほど経費をかけるのか。
結構経費の割合が多いだろう、あまり高値は期待できない。
その人は頑張っているのかもしれないけど。
結局、面倒くさかったから一社目の人にダイヤのネックレスをいくつか売った。
査定額は2つで2万円。金のネックレスは1万5千円。
鑑定書のないダイヤは安いものか。
ダイヤのリングは5000円と言われたので保留にした。
まあこれで営業マンも最低限のノルマは達成できたんじゃないか、と少し同情もするから訪問査定はあまり割に合わない気もする。
試しにメルカリでダイヤのリングを出品してみると、鑑定書もないのに一瞬で2万円で売れた。
一瞬だったってことはもう少し高値でも良かったのか…
でも鑑定書付きのリングだなんて他にも出品されているのに。
まあしょうがないか。
これにて面倒な出品物は終わり。
ようやく目処がついた。
話は変わって最近考えていたこと。
瞑想とはメタ認知である。
高位の自分が自分を観察する。
心理学的にメタ認知は良いものだとされる。
自己を客観視するということ、思い返せばそれって終わりが分かっている時期に自然と出来ていたことなのではないか。
例えば、学生時代、期限付き契約社員、繋ぎでやっていたアルバイト。
「僕は今高校生だ。だから高校生らしいことをしよう。悔いのないようにしよう」とか、思っていただろう。
そういう自然と出来ていたメタ認知が心理学的にも良いことで、だから美しき思い出として残っているのでは。
「これからずっと…」と考えるとメタ認知はしにくくなる。
いつまで経っても今からの連続で、未来や現在は主観的すぎるものになる。
そのような主観が今の自分の位置付けを忘れさせ、価値も見出しにくくなる、のではないか。
まあこれは性格の違いも関係している。
日本人に多い、エゴグラムで言うところのAC優位は他者の目を気にして不安定な状況には過度の不安を感じる。
だからこういう人らにとっては「これからずっと」はむしろ安心感をもたらすのかもしれない。
だが自分は嫌だ。
メタ認知から遠ざけ、今の一瞬の価値を薄れさせる。
全ては変わっていく。
だから今は価値がある。
そんなことは頭では分かっている。だが実感しやすい状況というのは限られている。