2020.12.23 将来のための修行が、そのまま我が人生となる
学生の頃は教養を得る一環として、色々な名作を読んでいた。
夏目漱石の小説を始めとして、外国の小説、不朽の名作の漫画、ゲームも含め…
現代的な娯楽とは少し異なったもので、どれも全て面白い、わけではないが面倒なところがあっても「教養を得るために!」というモチベーションで堪能していた。
思い返せば、そういう助走期間のような、修行のような、そういう期間や成したこともまた、人生そのものだっただろう。
子供の頃は「あなたたちには輝かしい未来が待っている」などといつかは何者かに変質するかのように思えて、その時の人生はまだ仮のものだと。
だが、あのときも、まさしく我が人生であった。
「いつかは俺も」と無根拠な自意識を肥大させながらも「いや、もしかしたら俺はこんなものか」と焦燥感を抱いた時も、「今は苦しくてもいつかは良くなる」と信じて自分の気持ちに蓋をして努力をしていた時も。
人生は有限で、あらゆるものを全て楽しむことは出来ない。
名作全てを堪能することは出来ない。
もし仮に出来たとしても、それだけで人生は終わる。そういう人生を歩みたいならばそれで良いのだが。
人生の本番とはいついかなるときも『今』で、将来に希望を持ったからとてその将来だけが人生のコアではない。
年金暮らしのきままな老後を信じて働いている人も、ニートをやっている人も、無気力に生きている人も、全員、『今この瞬間が人生である』と。