2021.12.14 合理主義と感情と、意識することと興味と

合理主義な人間は感情を重視しない冷徹、と言われる。
では合理主義当人は感情が多いのか、少ないのか。
基本的には少ないほうだと思う。
というより、感情が少ない人間ほど「理」と呼ばれるものを代わりに価値観にするが故に、合理主義となるのではないだろうか?
合理主義でいれば感情が少なくなっていくのか、感情が少ないから合理主義となるのか。
一考の価値はあると思う。

さて私は合理主義で感情が少ない人間…だと思う。
だけどこうやって連日自分の感情の無さを考えるってことは、感情に対して価値を認めていることではないだろうか。
大事でも何でも無いと思っていることに、意識することは少ないだろう。
そういうわけで自意識としては、感情に重きを置いているが、その無さに悲しんでいる、といったところか。
そうやって悲しんでいることすら、疑問に思っていることも、感情ではある。

では今の私に何が足りないのか。
一応、感情というものはあるにはあるが、その中の一部が足りないのではないか。
おそらく、多幸感などと称されるものなのではないか。
多幸感は色々な行動や考えによってもたらされる。
寒い日に入る温泉だったり、空腹の時に食べる食べ物だったり、愛する人と一緒にいるときとかもあるらしい。
他には、薬、酒、タバコなどの化学物質を脳に作用させることでも多幸感は生まれる。

もしかしたら、人の幸せとは多幸感と呼ばれる脳内物質以外に存在しないのではないか、とも思うのだ。
どういう時に多幸感を生み出す物質を分泌するかによって人の性格や行動は決定され、環境や繁殖(連続性)に適応するものが生き残り、連続してゆく。
今の快楽ばかりを追いかけるのも、未来のことを考えるより多幸感があるから。
未来のことばかり考えるのも、今の感覚よりそういうことを考えるほうが多幸感があるから。
そういう「何となく、気持ちの良い」感覚に支配されているのではないかと。
そして、良いタイミングで多幸感を生み出すマイクロチップを脳内に埋め込めば、自分にとっても他人にとっても、思いのままに出来るのではないか、と。

日記,心理

Posted by YU