あらすじと目次
昭和を問うなら開国を問え。そのためには開国以前の文明を問え……。幕末から明治に日本を訪れた、異邦人による訪日記を読破。日本近代が失ったものの意味を根本から問い直した超大作。
第1章 ある文明の幻影
第2章 陽気な人びと
第3章 簡素とゆたかさ
第4章 親和と礼節
第5章 尾雑多と充溢
第6章 労働と身体
第7章 自由と身分
第8章 裸体と性
第9章 女の位相
第10章 子どもの楽園
第11章 風景とコスモス
第12章 生類とコスモス
第13章 信仰と祭
第14章 心の垣根
あとがき
平凡社ライブラリー版 あとがき
解説 共感は理解の最良の方法である 平川祐弘
(平凡社より引用)
感想
外国人という「観察者の視点」を持つ人々
自国・我々の文化や文明を知りたい場合、実は当人が記録したものは使いづらいものである。
その理由は、私たちが知りたい多くのものは、彼らにとって「記録に値しない常識」であるから。
滅んだ古い日本文明の在りし日の姿を偲ぶには、私たちは異邦人の証言に頼らねばならない。
なぜなら、私たちの祖先があまりにも当然のこととして記述しなかったこと、いや記述以前に自覚すらしなかった自国の文明の特質が、文化人類学の定石通り、異邦人によって記録されているからである。
文化人類学はある文化に特有なコードは、その文化に属する人間によっては意識されにくく、従って記録されにくいことを教えている。
p18-19
そういう訳で、この本では外国の影響がまだ少なかった幕末の、開国直後に来日した欧米人の見聞録をまとめて、日本がまだ純粋に『日本』であった時代の模様を映し出そうとしている。
時代が進んで明治になれば、その知識人が江戸を語ることもあるだろう。
しかし、それもまたフィルターのかかったものである。
明治の日本人が語る江戸の日本も有用な情報であるが、欧米人の視点もまた非常に有用であるはずだ。
しかしこの「文化や文明の特質は異文化に生きる人びとの視点が必要である」というのは、歴史民俗学以外の分野でも活用できる考えだろう。
例えば、観光である。地元民なら分からない魅力が、異域の人なら分かることが多い。
住民が観光ガイドを企画するより、異文化の人間を招聘したほうが良いかもしれない。
開国・技術革新がもたらしうる苦難を知っていた
教科書などでは「欧米人が日本に開国を要求した」というのは知っているが、彼らの心情の全てまでは把握していなかった。
単に、「自国の利益」や「妄信的キリスト教精神の押し売り」から、独善的に日本を開国させたと思っていた。
だが、その考えは100%正しいというわけではないようだ。
欧米人もまた、産業革命以前は江戸時代の日本と同様、大企業や資本家が労働者から搾取せずに個人が個人で仕事を行っていたのである。
日本にやってきた欧米人の多数は進歩的な人々であったと思うが、それでも過去の牧歌的な自国の雰囲気を想起させられ、日本にノスタルジアを感じていた。
彼らが日本という異文化との遭遇において経験したのは、近代以前の人間の生活様式という普遍的な主題だった。
異文化とは実は異時間だったのである。
(欧米人の)彼らの眼には、初期工業化社会が生み出した都市のスラム街、そこでの悲惨な貧困と道徳的崩壊という対照が浮かんでいたのだ。
ひとは働かねばならぬときは自主的に働き、油を売りたいときはこれまた自主的に油を売ったのである。
(中略)(近代工業化以前の)19世紀初頭のヨーロッパにおいても、ひとは働きたいときに働き、休みたいときに休んだ。
p59,p132,p238
人々と機械が一か所に集まって効率的な生産を行うマニュファクチュア(工場制手工業・工場制機械工業)は、確かに大規模な生産を可能にした。
しかしそこで生まれたのは、急速に拡大していく貧富の差である。
以前から貴族と庶民の間に階級の格差はあれど、更に資本家と労働者の間に更に大きな格差が生まれていくようになった。
皆等しく貧しいよりも、全体的には豊かになっても格差が大きければ、人は貧しさを感じやすい。
その結果、治安や人心の悪化が起こる。
(通訳のヒュースケンの日記より)
「いまや私が愛しさを覚えはじめている国よ。
この進歩は本当にお前のための文明なのか。
この国の人々の質朴な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。
この国土の豊かさを見、至るところに満ちている子供たちの貧しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことが出来なかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪意を持ち込もうとしているように思われてならない」
p14
驚くことに、欧米人たちの中にはこの開国がもたらす変化の行く末を案じる人々がいたのである。
自国の歴史を少なからず批判的に客観視し、それを異国に当てはめ予測する能力、現代人の私から見ても全くもってその慧眼に感服する。
しかしどれだけ個人レベルで人々の幸福を案じようとも、政治的・技術的な革新を止めることは難しい。
この変化が不可逆的なものであることを既に知っているからこそ、今この瞬間の夢幻の様相を博物的に書き留めて後世に残そうとしていたのだ。
日本人は一種の鷹揚なニヒリストだった
この「逝きし世の面影」には、異邦人の視点を借りて、江戸の日本の雰囲気を味わうことが出来る。
個人的に印象に残ったものを以下に記す。
- 日本人の生活は上は将軍から下は庶民まで質素でシンプルである。
救いようのない貧困層がいない。
(第3章 簡素とゆたかさ) - 幕藩権力は禁令を出していても、行き過ぎなければ慣習法を見逃し、民衆の自治意識に任せた。
日本人の使用人は、自分が正しいと思ったことを行い、例え主人の命令でも背くことがあった。
(第7章 自由と身分) - 性愛は恥じらうものでも隠すものでもなかった。
(第8章 裸体と性) - 「愛は恋と無縁に、義務という束縛の形をとって育つ」
(第9章 女の位相) - 世界的に見ても大都市だった江戸は市街部と郊外に連続性があり、「大きな村」だった。
(第11章 風景とコスモス) - 上流階級は無神論者で、日頃寺社に参詣するのは貧乏人や女子供のみである。
「日本では宗教は娯楽だ」
しかし日本では儀礼の踏襲によって宗教的意識を持たせるもので、キリスト教ではプロテスタントよりロシア正教やカトリックに似ている。
(第13章 信仰と祭)
全体的に過去の日本人というのは、プロテスタントのような厳格な人々と比べれば、不真面目で開放的で鷹揚で自己顕示欲が少ないようである。
子供だけでなく大人も凧揚げなどで精一杯遊ぶし、小物細工は妙に拘って自身の力を競い合うし、他人に怒ることは少ない。
人懐っこく献身的で警戒心が少なく、かえって図々しくも見える。
このように不真面目に見える日本人の態度には欧米人たちは困惑をしたことも多く、見下すこともあった。
しかしこの様相も、更にもっと俯瞰的に見れば、実はこの世の真理に近づいた結果なのかもしれない。
(オールコックが言うには)日本の社会にはすぐれてキリスト教的な要素である精神主義、「内面的で超人的な理想、彼岸への憧れおよび絶対的な美と幸福へのあの密かな衝動」が欠けており、同じく芸術にも「霊感・高尚な憧れ・絶対への躍動」が欠けているのである。
(東海道中膝栗毛について)要するにこの物語を貫いているのは、この世を真面目にとる奴は阿呆だという精神だろう。
この世も人間もたかが知れている。
(中略)それはニヒリズムと背中合わせの感覚であるだろう。
(大火事にあって)「日本人はいつに変わらぬ陽気さとのんきさを保っていた。
不幸に襲われたことをいつまでも嘆いて時間を無駄にしたりしなかった。
持ち物すべてを失ったにもかかわらずである。
日本人の性格中、異彩を保つのが、不幸や廃墟を前にして発揮される勇気と沈着である」
そういう日本人を『宿命論者』と呼んだ。
p570,p574,p507
日本国は地学的に災害が多いから、不慮の事故や死が欧米よりも身近にあり、その結果「上も下も同じである」「必死に努力しても、その成果はすぐに灰燼に帰す」「将来はどうなるか分からないから、今を楽しめ」という精神になった可能性はある。
現代的に言えば、当時の欧米人は『意識高い系』にも見えてしまう。
総評
この本は606ページの大作であり、しかも改行が少ないからほぼ全てのページに文字がびっしりと書いてあり、読み進めるのに時間がかかる。
また、個人的には少々、著者の意見がくどいと感じることもあった。
確かに欧米人たちや同時代を調べる別の研究者の無知な記述に批判を加えたい気持ちは分かる。
が、もう少し淡々と記述してくれたほうが、せっかちな自分としてはありがたい。
しかしほとんど知る機会の無い開国直後の欧米人の生の声を網羅的に知れる他の本は、ほとんどない。
文明開化によって技術・モノ・生活様式だけでなく人々の心までもが劇的に変化し、取り戻すことは出来なくなった。
そんな失われた『逝きし世』たる過去の日本の、その雰囲気を少しでも味わうことが出来る貴重な一冊だったと思う。